028 醜い終わり
痛い。痛い。痛い。
顔面をひしゃげさせられた激痛が、泥のような意識を無理やり現実へと引き戻した。
「あ、が……っ、ひゅゅ、っ」
ソラリス副長・ガストリディウムは、自身の書斎の絨毯の上で、無様に這いつくばりながら目を覚ました。
鼻骨が完全に粉砕されており、呼吸をするたびに気道に溜まった自分の血が泡立ち、豚のような気色悪い音が鳴る。
視界は涙と血でぼやけていたが、自分が置かれている状況を理解するには十分だった。月明かりに照らされた書斎には、彼が全幅の信頼を寄せていたTALOSから派遣された精鋭護衛部隊の『黒焦げの灰』が散乱している。
組織の暗殺部隊を次々と返り討ちにし、王都へ舞い戻ってきた悪魔。あのボサボサ頭の、ひ弱で陰気なアーキテクトが纏っていた、次元の違う白亜の装甲。
思い出すだけで、極限の恐怖がガストリディウムの胃袋を鷲掴みにし、失禁した股間から再び生温かいものが漏れ出した。
「に、逃げ、なきゃ……」
彼は立ち上がることもできず、手足を使って尺取り虫のように床を這い進んだ。砕けた鼻からドス黒い血が滴り落ち、高級な絨毯にズルズルと惨めな這い跡を残していく。
向かう先は、書斎の奥に隠された地下通路。
あの理不尽な暴力がいつ戻ってくるか分からない。早く、絶対に安全な場所へ。あらゆる物理と魔法の干渉を遮断する、あの『鉄の棺』へと。
地下の最奥。血まみれの手で生体認証パネルを操作し、ガストリディウムは転がり込むように『パニックルーム』へと逃げ込んだ。
旧オーラム帝国軍が対大規模魔導兵器用に設計した、厚さ一メートルの鋼鉄の扉が、重々しい音を立てて完全に閉鎖される。
「は、ははっ……!」
完全な密室。絶対の安全圏。
ロックが掛かった音を聞き、ガストリディウムはようやく息を吹き返し、狂ったように笑った。
これでヒバリも手が出せない。
「連絡だ……グラウクス様に、ダイダロスに援護を……!」
彼は震える指でコンソールを叩き、グラウクスへ通信を繋ぐ。
『――何の用だ、ガストリディウム』
スピーカーから響いたのは、氷のように冷酷な声だった。
「グ、グラウクス様! 助けてください! ヒバリです、あのアーキテクトの化け物が……!」
『ああ、知っている。……お前への援護は、一切送らない。お前はもはや組織にとって無価値だ』
「なっ……し、しかし私はソラリスの副長で……っ!」
『ならば、その「絶対安全」な鉄の棺の中で、息が詰まるまで震えているがいい。せいぜい、奴らの足止めくらいにはなるだろう』
ブツッ、と。
無慈悲な電子音と共に、通信が一方的に切断された。
ガストリディウムは絶望に打ちひしがれ、鉄の棺の中で、来るはずのない救援を待ちながら震え続けた。
◆◆◆
豪邸の地下最奥。
絶対防衛を誇る一メートル厚の鋼鉄の扉の前。そこに、ヒバリとハパロクラエナが立っていた。
二人の間に漂うのは、情愛でも連帯でもなく、互いの復讐を遂行するためだけに結ばれた、極めてドライな共闘関係のみである。
「……パニックルームか」
ハパロが忌々しげに舌打ちをする。
「逃げ込んだ先がここか。ダイダロスへの通信もここからだろう」
「旧オーラム帝国軍の対大規模魔導兵器用シェルター。あらゆる魔法的干渉を完全に遮断する。僕の現在の出力でこの扉を溶断するには、約十分かかる」
ヒバリはパラディウムを歩ませ、冷たい鋼鉄の壁に手を触れた。
「だが、先ほどの騒ぎでノヴァの包囲網が王都中に敷かれ始めている。ここで時間をかけるのは得策じゃない」
「十分も待てば、俺たちは王都の全戦力を相手にすることになるな」
ハパロは痛む脇腹を押さえながら、扉の可動部である蝶番の密閉シール部分に目をつけた。
「……ヒバリ。お前のその装甲の最大火力は、ピンポイントで打ち込めるか?」
「一ミリの誤差もなく可能だよ」
「上等だ」
ハパロは、左手に握っていた『カランサルティアの折れた切っ先』を逆手に持ち替えた。
彼は肉眼では確認すら困難な蝶番の隙間に、その切っ先を迷いなく突き立てた。
「どんなに分厚い装甲でも、関節の隙間はゼロにはならない。俺がこの折れた刃で、コンマ数ミリの『道』を作った。……お前の最大火力を、この剣の腹に寸分違わず叩き込め」
それは、成功すれば扉が壊れ、失敗すればハパロの手首が吹き飛ぶという狂気の賭けだった。
「……君のその自信は、どこから来る」
「俺が天才だからだ。……やれッ!」
ハパロの叫びと同時。
パラディウムの背部スラスターが爆発的に発光し、右腕のシリンダーが限界の咆哮を上げた。
莫大な推力を乗せた白亜の拳が、ハパロの握る折れた刃の背を、ミリ単位の狂いもなく正確に打ち抜く。
空間が歪むような激突音と共に、絶対防衛を誇るシェルターの内部機構が限界を超えてひしゃげた。一メートル厚の鋼鉄の扉が、枠ごと無残に内側へと吹き飛ばされる。
土煙が晴れると、そこには失禁し、部屋の隅で震えるガストリディウムの姿があった。
ヒバリとハパロは無言で部屋へ足を踏み入れる。
「……見苦しいな。ソラリスの副長ともあろう者が」
ハパロが氷のような声で見下す。
「味方の援軍でも待っていたか? 残念だったな」
ガストは命乞いを繰り返すが、ヒバリは左手首のインプラントから刃を形成し、ガストの眼球スレスレに突きつけた。
「貴方が知っている『ダイダロス』の情報をすべて吐いてください」




