026 プラズマ・ブルース
「少し、行ってくる」
姉に短く告げ、ハパロクラエナは病室の自動扉を抜けた。
深夜の静まり返ったVIP病棟の廊下。無菌状態に保たれた冷たい純白の空間に、彼の足音が一つだけ響くはずだった。
だが。
チカッ、と。廊下の魔導照明が不自然に明滅した。
「…………」
ハパロは歩みを止め、息を殺した。
薄暗くなった数十メートル先の廊下の奥。そこから、音もなく『五つの黒い影』が滲み出るように現れた。
全員が黒いタクティカルスーツに身を包み、顔の半分を無機質な光学スコープで覆っている。首筋や腕に埋め込まれたTALOS製の機械装甲から、暴力的な魔力のオーラが陽炎のように漏れ出していた。
彼らは一言も発さない。下劣な挑発も、勝利を確信する嘲笑もない。ただ、プログラムされた機械のように正確な足取りで、標的であるハパロへの距離を詰めてくる。プロの暗殺部隊。完全なる『処理』のための暴力。
「……ガストリディウムの掃除犬というわけか」
ハパロは静かに呟き、腰に提げていた愛剣――最高峰の魔導細剣を抜き放った。
しかし、その刀身は先日の熱暴走によって黒焦げに焼けただれ、かつての美しい輝きは完全に失われている。魔導回路は死滅し、魔法陣を展開することはおろか、魔力を通すことすらできない。ただの鉄の棒だ。
敵の光学スコープが、魔力反応の全くないハパロの武器をスキャンし、微かに赤く明滅する。それを合図とするように、五人の暗殺者が一切の足音を立てずに床を蹴った。
「舐めるなッ!」
ハパロもまた、前傾姿勢で死線へと踏み込んだ。
魔力による身体強化も、超高度な演算アシストもない。身体は鉛のように重く感じられた。だが、彼の脳裏には、かつての専属アーキテクトであったヒバリの言葉が蘇っていた。
――君が数百の魔法陣を同時に展開できるのは、君の天賦の才だけじゃない
なら、魔法陣が一つも展開できなくとも。この純粋な『剣を振るう才能』だけは、間違いなく俺自身のものだ。
先陣を切って炎の魔法を纏った高周波ブレードを振り下ろしてくる敵に対し、ハパロはギリギリまで引きつけ、紙一重で身を躱した。燃え盛る刃がハパロの頬を掠め、金糸の髪の毛を焦がす。しかし、ハパロの黒焦げのレイピアは、すでに敵の装甲の隙間――首の頸動脈を正確に捉え、音もなく貫いていた。
「ガ、ハッ……!?」
一人目が血を吹き出して崩れ落ちる。間髪入れず、二人目と三人目が左右から同時に無言の連撃を仕掛けてきた。機械装甲による異常な踏み込み。
放たれた雷の魔法弾を、ハパロはレイピアの腹で弾き落とす。だが、魔力コーティングのない剣は激しい衝撃に軋み、ハパロの腕の骨にビリビリとした痛みを伝えた。
「くそっ……!」
ハパロは苦痛に顔を歪めながらも、敵の刃を流れるような剣さばきで受け流し、相手の体勢が崩れた瞬間に、関節の隙間を的確に斬り裂いた。純粋な『剣技』と超人的な反射神経。魔法の力に頼り切っていたサイボーグ兵士たちにとって、魔法を一切使わずに致命傷を与えてくるハパロの動きは、逆に予測不能の恐怖だった。
残った二人が距離を取り、魔導銃と魔法による波状攻撃を仕掛けてくる。ハパロは病室の扉に弾が当たらないよう、自ら射線に飛び出した。
「ぐはっ……!」
脇腹を熱線が掠め、肉が焼ける嫌な匂いが鼻を突く。太ももを真空の刃が切り裂き、鮮血が舞った。激痛に一瞬膝を折りそうになるが、ハパロは奥歯を噛み砕くほどの力で耐え、狂気的なステップで距離を詰めた。四人目の喉元をレイピアの切っ先で抉り取り、最後の一人――リーダー格の男へと肉薄する。
無言のまま、リーダー格の男が渾身の力で高周波ブレードを大上段から振り下ろした。ハパロはそれを回避せず、レイピアを交差させて受け止める。
甲高く澄んだ、しかし絶望的な破砕音が廊下に響き渡った。度重なる酷使と熱暴走で限界を迎えていたカランサルティアの刀身が、敵の重い一撃に耐えきれず、半ばから無残にへし折れたのだ。
敵が勝利を確信し、そのまま刃を押し込もうとした、その瞬間。
「もらったァッ!」
ハパロは折れた刃の柄でブレードを弾き流しつつ、空中に舞った『折れた切っ先』を、素手で――血まみれの左手で直接鷲掴みにした。
そのまま、ハパロは左手に握った折れた刃を、敵の光学スコープごと眼窩に深々と突き立てた。男の身体がビクンと痙攣し、そのまま糸が切れたように床へと崩れ落ちる。
五人の暗殺部隊の死体が転がる、凄惨な殺戮の廊下。純白の壁と床は赤黒い血と焦げ跡で汚れ、静寂だけが戻ってきた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
ハパロは、血だまりの中で荒い息を吐いていた。特注の隊長服は至る所が斬り裂かれ、左手からは折れた刃を握った代償としてボタボタと血が滴り落ちている。それでも、彼は勝った。魔力も演算アシストもない状態での、天才としての意地。
「……終わったぞ。さあ、すぐここから逃げ……」
ハパロが右手には折れた柄を、左手には鋭い切っ先を握りしめたまま、姉の病室へ戻ろうと振り返った、その時だった。
血まみれの廊下の奥から、ひしゃげた重い足音が響いた。ハパロは背筋に氷をねじ込まれたような悪寒を覚え、双剣のように構え直す。
「……今度は手ごたえがありそう奴だな」
暗がりから姿を現したのは、人間の輪郭を逸脱した異形のサイボーグだった。シガヌス――かつてファウンテンでヒバリに敗れた彼は、王都の地下施設で修復を受け、TALOSの最新技術によって『過剰なアップデート』を施されていた。砂色の襤褸布のような外套の隙間から覗く右半身は、武骨な重装甲に覆われ、動力パイプが不気味な脈動を打っている。右顔面を覆う赤い多眼レンズのような光学スコープが、獲物を値踏みするようにギョロリと動いた。
「…………」
ハパロの挑発に対し、シガヌスは一言も発さなかった。ただ鬱陶しそうに無言で首を鳴らすと、右腕の装甲から身の丈ほどもある高周波ブレードを展開した。空気を焼く不快な駆動音が廊下に低く唸る。ペラペラと己の素性を明かすような三流ではない。ただ標的を粉砕するだけの、冷徹な殺戮機械。
「来るか……ッ!」
シガヌスの巨体が、爆発的な推力で狭い廊下を突進してきた。振り下ろされる巨大な刃。ハパロは正面から受ける愚を避け、廊下の壁を蹴り上げて三次元的な回避を見せる。シガヌスの刃が純白の床と壁をバターのようにえぐり取り、コンクリートの破片が散弾となってハパロの頬を掠めた。
(速い……! だが、あいつの右半身は機械、左半身は生身だ。装甲は硬すぎるが、必ずどこかに関節の『隙間』があるはずだ!)
ハパロは壁から着地する反動を利用し、床を滑るようなスライディングでシガヌスの懐へと潜り込んだ。狙うは機械と生身の境目、腹部の生体接合部。右手の折れた柄を囮としてシガヌスの光学スコープへ投げつけ、一瞬のブラインドを作る。
「シィッ!」
シガヌスが飛来した柄を刃で弾いたコンマ数秒の死角。ハパロは血まみれの左手に握った切っ先を、シガヌスの接合部へと渾身の力で突き立てた。
硬質な金属同士が激突する音が鳴った。
「……なっ」
ハパロは愕然と目を見開いた。肉を断つ感触はなかった。必殺の突きは、シガヌスの皮膚を覆うように瞬時に展開された『不可視の電磁障壁』によって、いとも容易く弾き返されていたのだ。
「……チッ。小細工ばっかやな」
シガヌスが、初めて濁った声を発した。それは相手の足掻きに対する、純粋な苛立ちだった。彼は防御に回るどころか、あえてハパロの突きを電磁障壁で受け止めたまま、その丸太のような左の裏拳をハパロの腹部へと情赦なく叩き込んだ。
「がはっ……!」
内臓が破裂するかのような激痛。天才の剣技も、命を削ったフェイントも、圧倒的な『理不尽』の前には無意味だった。ハパロの身体は弾丸のように廊下を吹き飛び、背後のVIP病室の自動扉をひしゃげさせながら、ファレノのいる病室の中へと派手に叩き込まれた。
「あ、あぁ……っ」
生命維持装置の機材に激突し、ハパロは口から大量の血を吐き出した。肋骨が数本折れている。立ち上がることすらできない。
「ハパロッ!?」
ベッドの上にいたファレノが、悲鳴を上げて身を起こそうとする。
「……終わりや。テネブレの坊ちゃん」
壊れた扉を踏み越え、シガヌスが悠然と病室へと歩み寄ってくる。赤熱する高周波ブレードが、無慈悲にハパロの頭上へと高く振り上げられた。
絶対的な質量と、テクノロジーの差。ただの生身の人間に成り下がった今の彼に、この怪物を打倒する術は残されていない。死を覚悟し、ハパロが固く目を瞑った、その瞬間だった。
鈍い破砕音が響き、シガヌスの頭部に何かが直撃して砕け散った。
「……あ?」
シガヌスが動きを止め、鬱陶しそうに視線を向ける。彼に投げつけられたのは、ファレノのベッドの脇に置かれていた、水と花の入ったガラスの花瓶だった。自力で起き上がることすら困難なはずのファレノが、最後の力を振り絞って身を乗り出し、弟を守るためにシガヌスへとそれを投げつけたのだ。
「私の弟に……触るなっ……!」
ファレノは肩で荒い息を吐きながら、怯えることなくシガヌスを睨みつけていた。
「姉、上……逃げ、ろ……っ」
ハパロが血を吐きながら制止するが、シガヌスは顔についた水滴を無機質な手で払い、苛立たしげに舌打ちをした。
「……クソ女が。ええわ、まずは見せしめにこっちから肉塊にしたる」
シガヌスの赤い光学スコープが、ファレノへと無慈悲にロックオンされる。赤熱するブレードが向きを変え、無防備なファレノの華奢な身体へと振り下ろされようとした。
「やめろぉぉぉぉぉぉッ!!」
ハパロの獣のような絶叫が、病室に木霊する。
シガヌスの刃が、ファレノの首に到達しようとした、その刹那。
夜の静寂を切り裂く、凄まじい爆発音が病室の空気を震わせた。
分厚い強化ガラスと外壁が、巨大な圧力を伴って内側へと吹き飛ぶ。瓦礫と粉塵が嵐のように舞い込み、夜空の冷たい月明かりが室内に差し込む。
シガヌスの高度な動体センサーが異変を察知し、警告アラートを鳴らそうとした時には――すでに、遅かった。
隕石が墜落したかのような、重く濁った衝突音。
青白いプラズマの炎を推進力に変えた、圧倒的な質量暴力。窓をぶち破って飛び込んできた白亜の装甲が、そのままの勢いで放った強烈な飛び蹴りが、シガヌスの重装甲の胸部にクリーンヒットした。
「ガァッ……!」
一〇〇キロを超えるシガヌスの巨体が、紙屑のように病室の端から端まで吹き飛ばされ、コンクリートの壁に深くめり込んで停止した。瓦礫がパラパラと崩れ落ちる中。青白いプラズマの炎が揺らめき、土煙の中から静かに立ち上がる影があった。
純白の流線型のボディ。全身を這い回る禍々しい真紅のエネルギーライン。そして、胸部で赤々と脈打つ円形動力コア。対ハンター用自己防衛アーキテクチャ『パラディウム』。それは、呆然とするハパロとファレノを守るように、静かに、そして絶対的な死神のように立ちはだかっていた。
壁にめり込んだシガヌスの光学スコープが、眼前の白亜の装甲をスキャンする。網膜に表示されるのは、『解析不能』と『計測上限突破』のエラーメッセージの羅列のみ。目の前に立つ存在が、かつて自分を焼き払ったアーキテクトであろうとなかろうと関係ない。この理不尽な死の気配を放つ障害物を排除しなければ、己の任務は完遂できない。
シガヌスは一切の言葉を発さなかった。壁から無言で抜け出すと、TALOSの最新技術によって強化された筋繊維と魔力炉を、限界のその先までオーバードライブさせる。爆発的な推力による神速の突進。最大出力の魔法を纏わせた高周波ブレードが、パラディウムの首を刈り取らんと音を置き去りにして薙ぎ払われる。
しかし――
パラディウムは、一歩も動かなかった。真紅の複眼バイザーが、ただ冷徹にシガヌスの軌道を捕捉する。
シガヌスの刃がパラディウムの首に到達する、そのコンマ一秒前。パラディウムの背部スラスターから、強烈な青白い閃光が噴出した。
シガヌスの視界から、白い装甲が完全に消失した。
(消えた……?)
シガヌスの光学スコープが激しくノイズを走らせる。回避されたのではない。彼に搭載されたTALOSの最新動体センサーですら、パラディウムの異常な超高速機動を全く捉えられなかったのだ。
気がついた時、シガヌスの腹部には、パラディウムの右拳が深々とめり込んでいた。
無言のまま放たれた、極めてシンプルな一撃。
空間そのものが爆ぜるような、究極の破壊音が鳴り響く。
拳の接触面から、パラディウムの莫大な運動エネルギーと魔力が、ゼロ距離でシガヌスの体内に叩き込まれた。
「あ、が……っ」
シガヌスの背中側の装甲が爆発的に弾け飛び、血と機械部品が部屋中に撒き散らされる。TALOSが誇る最新の装甲も、電磁障壁も、何の意味を成さなかった。ただ純粋な『暴力の次元』が違いすぎたのだ。
シガヌスの機械の瞳から、完全に光が失われた。暗殺者としての矜持も、ダイダロスの誇りも示す暇すら与えられない、完全なる機能停止。
パラディウムは、動かなくなったシガヌスの顔面を掴むと、そのまま外壁の穴から眼下の夜の街へと、ゴミ屑のように無造作に放り投げた。巨体が王都の闇の中へと墜落していく。
数秒前までの死闘が嘘のような、圧倒的で、無慈悲なまでの静寂。白煙を上げるパラディウムが、ゆっくりと振り返る。そこには、姉を庇うように抱き抱え、呆然とヒバリを見上げているハパロの姿があった。




