024 愚者の弱点
深夜。王都ブルジュラの中心部に位置する、ゼニス直轄の『第一特別病棟』。
王族やトップハンターの家族など、限られた特権階級の者だけが利用できるその豪華なVIPルームは、都市の狂騒から完全に隔離された冷たい静寂の中にあった。
規則的な電子音を刻む最新鋭の生命維持装置。そのベッドの上で、一人の女性が静かに横たわっている。
「……ハパロ? どうしたの、こんな時間に」
病室の扉が開き、重い足取りで入ってきた弟の姿を見て、女性――ファレノは弱々しく微笑んだ。
かつては王都の社交界でも評判の美しい女性だった。ハパロと同じ豪奢な金糸の髪と、優しげなアーモンド型の翡翠色の瞳。だが、数年前から原因不明の難病に侵された今、長く伸ばされた髪からはかつての艶が失われ、その細い顔の輪郭には病的な死の気配が張り付いている。
首筋や手首の血管がうっすらと透けて見えるほどの、蝋細工のように血の気のない白い肌。今では自力で起き上がることすらできず、ゼニスの中枢施設でしか精製できない特殊な薬液の点滴によって、辛うじてその儚い命を繋いでいる状態だった。
「いや……少し、顔が見たくなっただけだ。姉上」
ハパロクラエナは、病室の椅子に腰掛け、痛々しいほど細くなった姉の手をそっと両手で包み込んだ。
テネブレ部隊の若き隊長として、常に傲慢で不遜な態度を崩さなかった彼の顔に、今だけは年相応の、ひどく疲れ切った青年の素顔が浮かんでいた。
「顔色が悪いわよ。目の下に隈ができているし……また、部隊で無理をしているんじゃないの?」
ファレノが、骨と皮だけになった手で、弟の金糸の髪を優しく撫でる。
「俺は天才だからな。無理などしていないさ。次の討伐作戦の準備で、少し手間取っただけだ」
ハパロは努めて不敵な笑みを作ってみせたが、長年連れ添った姉の目は誤魔化せなかった。
「……あなたのその『天才』っていう口癖。昔は、もっと自信に満ちてキラキラしていたのに。今はなんだか、自分に言い聞かせる呪文みたいに聞こえるわ」
「……そんなことはない」
ハパロは視線を伏せた。
姉の言う通りだった。ハパロが本物の天才だったのは、あの『最高傑作の魔導細剣』の恐るべき演算アシストがあってこその話だ。それを組み上げたアーキテクトを失った今、彼に残されているのは「元・最強」という虚栄心だけだった。
「ごめんなさいね」
ファレノが、ふと悲しげに呟いた。
「私の薬のために、あなたを無理やりギルドの鎖で縛り付けてしまって」
「馬鹿なことを言うな。俺は姉上さえ生きていてくれれば、それでいいんだ」
ハパロは強く首を振った。
ゼニスの特別病棟でしか打てないこの薬。それを手配し、莫大な治療費をギルドの特別経費で賄ってくれているのが、ガストリディウム副長だった。
だからこそ、ハパロは彼に逆らえなかった。部隊の心臓であったヒバリを理不尽な理由で解雇するよう命じられた時も、己の愛剣が致命的な不調をきたすことを理解していながら、姉の命を天秤にかけられ、その「猿芝居」に従うほかなかったのだ。
(俺は、世界一愚かな男だ……)
ハパロは、腰に提げた黒焦げの愛剣の重みを感じながら、己の弱さを呪った。
権力に屈し、恩人を裏切り、仲間を危険に晒した。それでもまだ、この姉の温かい手を離すことだけはできなかった。
「……ねえ、ハパロ」
ファレノは、ハパロの手を力なく握り返し、まっすぐに弟の目を見た。
「あのね。最近、この病棟の看護師たちが噂しているのを聞いたわ。……少し前に、ソラリスでとても優秀な技術者の方が、理不尽に解雇されたって。そして、その決定を下したのは、私の自慢の弟だって」
「っ……」
ハパロの肩が、ビクンと跳ねた。
「あのガストリディウム副長が、私の治療費を盾にして、あなたに汚れ役を押し付けていることくらい……ずっとベッドに寝たきりの私にだって、分かるわよ」
「姉上、それは……」
「ハパロ。もう、いいのよ」
ファレノの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「私のために、あなたが自分の誇りを曲げたり、恩人を裏切ったり……あなた自身の心を殺して、誰かの操り人形になっていくのを見るくらいなら……私は、もう、これ以上薬なんて……」
「やめろッ!!」
ハパロが、思わず大声を上げた。
静かな病室に、その悲痛な怒号が響き渡る。
「そんなことを言うな! 俺が……俺が全部なんとかする! 俺は天才なんだ、だから……!」
「ハパロ!!」
ファレノが、残された力の全てを振り絞って、弟を怒鳴った。
「天才の仮面を被って、自分を誤魔化すのはもうやめなさい! あなたは昔から、泣き虫で、優しくて、正義感の強い、私のたった一人の可愛い弟じゃない……!」
その言葉に、ハパロの目から堪えきれずに大粒の涙が溢れ出した。
ポロポロと、子供のように涙をこぼしながら、ハパロは姉のベッドに突っ伏した。
「……怖かったんだ……」
ハパロの口から、絞り出すような嗚咽が漏れる。
「姉上が死んでしまうのが、怖かった……。ヒバリを追い出した時も、カルコサの前で部隊が全滅しそうになった時も……全部俺のせいだ。俺が弱かったから……!」
「ええ。あなたは弱かったわ」
ファレノは、泣きじゃくる弟の背中を、優しく、何度も何度も撫でた。
「でも、もう十分に苦しんだでしょう? これ以上、自分の心に嘘をついて生きる必要はないわ。……私の命より、あなたの『誇り』を取り戻してちょうだい」
姉の温かい手のひらの感触。
それは、ハパロの心に何重にも巻き付いていた冷たい鎖を、ゆっくりと溶かしていくようだった。
しばらくの沈黙の後。
ハパロは袖で乱暴に涙を拭い、椅子から立ち上がった。
「……ありがとう。姉上」
彼の瞳から、先程までの疲労感や、虚勢を張った傲慢さは消え失せていた。
そこにあるのは、憑き物が落ちたような、静かで、しかし決して折れることのない強靭な『意志』の光だった。
「……俺はもう、誰の言いなりにもならない。ガストリディウムの首根っこを掴んででも、あの薬の権利を俺たちの手に取り戻す。そして、ヒバリにも……絶対に落とし前をつける」
ハパロは、黒焦げになったレイピアの柄を強く握りしめた。
それは、テネブレの愚かな隊長が死に、一人の男が真の『英雄』へと歩み出した瞬間だった。
「少し、行ってくる」
「ええ。……気をつけてね、ハパロ」
姉の優しい微笑みに背を向け、ハパロは病室の扉へと向かった。
ガスト副長のいる、ソラリス本部ビルの最上階へ向かうために。
――しかし。
ハパロが自動扉のセンサーに手をかざそうとした、その時だった。
……カツン、カツン、カツン。
深夜の静まり返ったVIP病棟の廊下から、複数の、ひどく規則的で無機質な足音が近づいてくるのが聞こえた。
それは明らかに、深夜の巡回を行う看護師のものではなかった。
微かに混じる、機械の駆動音。そして、廊下の向こう側から漂ってくる、むせ返るような『濃密な殺気』。
ハパロは扉の前で足を止め、息を殺した。
黒焦げのレイピアの柄を握る手に、じわりと冷や汗が滲む。
誰かが、この部屋に向かっている。
嵐の前の静けさは、すでに終わりを告げようとしていた。




