第96話 まだ幕は降ろさない!③
「炭鉱で事故?」
井伊直政は信じられない面持ちで本多忠勝の顔を見た。
「慎重に……ことを運んでいたはず……」
先ごろ、松平忠吉と婚礼を挙げた初を迎えに行った際に炭鉱も見学したが安全対策は万全に思えた。
「信じられないな」
「まあ、事故というのはそういったものであろう」
忠勝は憂いを帯びた目で直政を見た。
「上様にご報告は?」
「それを兵部殿に頼みたい」
忠勝の要請を直政は了承した。
家康は相変わらず暗がりの中に居る。
直政が部屋に入りサッと襖を閉めると、家康は書物から目を移し柔和な笑みを浮かべた。
いつもこの主君は直政に優しい。
「万千代、どうした? 暗い顔をして」
「佐和山炭鉱で落盤事故が発生したそうです」
「そのようだな」
「……ご存知で?」
家康は直政の不安を取り除くようにニッと笑った。
「ことを急ぎすぎるとロクなことが無い……そう思わないか? 万千代」
「……平八郎殿(忠勝)が救援の兵を派遣するそうです。役に立つか分かりませんが、私もそうしようかと」
柔和な表情を変えぬまま家康は応えた。
「その必要はない」
「……」
「兵は出さなくて良い」
家康は直政を近くに呼び寄せる。
そっと直政の左手に自らの右手を添えた。
「淀が欲しいか?」
家康は直政の瞳を覗き込んだ。
「ん? そなたがどうしても欲しいというのなら、何とかしてやろうか?」
家康は低く落ち着いた声をしている。
「ワシはあの女が嫌いだ。でも……そなたの言う事は聞いてやりたい」
「欲しいです……でも」
直政は真っすぐ主君を見返した。
「でも、私は……私が彼女を惚れさせますから。自力で勝ち取ってみせますから。だから、殿は何もなさらなくて大丈夫です」
「父上、よろしいですか?」
扉の向こうから声がする。
松平忠吉だ。
家康はサッと直政の指から手を離す。
「炭鉱事故の件で……私も……兵を出そうかと……」
「必要ない!」
家康のツルリとした顔の眉間にシワが寄る。
苛立ちを隠さない。
「悪いな……万千代。席を外してくれ」
直政は頷いて席を立った。
一礼して部屋を出る。
「なぜ、お前はそう思慮が足りないのだ……!」
家康は忠吉を詰る。
「家臣団はまだしも、お前は頭領だぞ。お前がほいほい動けば軽んじられる。それが分からぬか?」
「し、しかしながら! 宮本武蔵はみなの憧れで、生き方そのものに感銘を受けた者が多数ございます。ぜひ助けたいと存じます!」
忠吉は必死になって訴える。
「他の二名も炭鉱内で取り残されて、心細い思いをしているかと……とても見捨ててはおけません! できる限りのことはしてやりたい」
家康はあからさまにため息をついた。
「我慢ならない……なぜお前はそうなのだ?」
「父上は……私がお嫌いですか?」
おずおずと忠吉は父親に尋ねた。
「嫌いとか好きとかの問題ではない」
「……たまに、私は父上のことが分からない。 私のことが憎いなら……どうか、そう仰ってください……」
そういうことではない、と家康は忠吉の感傷を手で制した。
「ワシは実際、炭鉱なんてどうでも良いのだ。忠吉」
西軍だけが取り掛かるとなれば東軍側にも軍事的な焦りが生じるため、仕方がなく黒田長政の話に乗った。
「なぜみな豊かになろうとする? なぜこの世を暮らしやすくしようとするのだ。便利な世の中がそんなに良いか?
ワシはそう思わない。本当の豊かさとは何か。答えは農村にある」
家康は息子の顔を見て切々と話す。
「人は田を耕し、畑で命を育てながらみな自然の中に生まれてきてやがては死んでゆく……学問も、たまの楽しみや息抜きも、時には必要だが基本的な生き方は昔からそれほど変わってはいない」
家康は農村の人々の美しさに感動を覚える。
田畑の風景に涙する。
「国を富ませることに終始した先には何があった? ワシの御代が終わり、行き着く先はどこであった? あのような大戦が起こったのも人が身の程を忘れ、貪欲に豊かさを追及したからであろう」
家康はもし江戸幕府が続いていたなら、先の悲劇的な大戦が起こらなかったであろうという確信がある。
もちろん小栗上野介を中心に強兵を行い、海外列強と軍事的に肩を並べることは重要であるが、身の程を知れば領土的な野望を持つことはなかった。
――否、確信ではない。『事実』だ。
事実、日本人は大量に死なずに済んだはずだ。
「治部とワシとでは考え方が徹底的に合わない」
家康は自分ほど『日本人』の性質を理解している為政者はいないだろうと思う。
急激な変化は災いをもたらす。
彼らに必要なのは身分制度などの程良い『秩序』と『役割』である。
過度な自由は『競争』を生みやがて『軋轢』に変わる。
ゆえに石田三成の施策はことごとく家康の考える日本人像と相反する。
ましてや、今は外圧など存在しないのだ。
すぐさま軍艦を作る必要はない。
「あれは治部と筑前(黒田長政)の肝いりで始めたもの……ことを急いで重大な事故を起こしたとして二人には引責辞任してもらえば良い。
出来うれば二度と表舞台に顔を出さぬように」
三成のことは、いずれ始末しなければならないだろう。
好きとか嫌いなどの範疇ではない。
人々に与える影響が大きすぎるからだ。
「まさか……父上が全て仕組んで?」
「……そんなわけなかろう? ワシがそんな男に見えるか?」
家康は息子を鋭く睨みつける。
「ただ……この事態は使える。それだけだ」
家康はふうっと息を吐いた。
「いいか。忠吉、大局を見よ」
いかにも生真面目そうな息子の顔をマジマジと見つめる。
「おぬしを好きとか嫌いとか、どうでも良い。おぬしはたった一人残ったワシの跡継ぎじゃ。大事に思わないわけはない」
「血筋だから……私が大事なのですか?」
「何なのだ? 一体? 子どもみたいな頑是ないこと言うな!」
これだけ噛み砕いて話してやったのだから、理解するに違いない。
そう思った家康は息子の意外な返答に苛立った。
「お前がもしワシの息子でなかったら、今のような思うがままに生きられると思っているのか?」
「私は、思うように……生きているわけではありません」
家康には忠吉がなぜ傷ついたような顔をするか分からない。
「私が……私以外であったら良かった……」
忠吉は掠れた声で言った。
「失礼します」
松平忠吉は足を引き摺るように清洲城の長い廊下を歩く。
欄干の外は雨がシトシトと続いていた。
「タダヨシ!」
廊下の先に佇む女が、弾むような声をかける。
「初……」
「タダヨシ! 大丈夫? 元気ないの?」
初はまだ冷える廊下に出て忠吉を待っていた。
「ナイフ……怒ってた?」
「うん」
忠吉は頭を掻きむしる。
髪の毛がボサボサになった。
「はぁ……俺のこと、ほんとに嫌いなのかなぁ……」
「ムカつくね! 私が言ってやろうか?」
初のあっけらかんとした言い方に思わず笑みが溢れる。
「アハハ! 大丈夫! ありがとう」
忠吉は初の手を取った。
白魚のような指先を自らの指に絡ませる。
「天才を親に持つと……それはそれでシンドイよ。稀有な例だから誰も分かってくれないしね」
初の手をギュッと握る。
「俺が良かれと思ったことは父上には違くて、父上が良いと思ったことは俺にとっては何か違う」
徳川家康という誰もが知っている偉人。
日本史上、稀に見る大傑物。
父子というよりは師弟である。
身近にいて教えを請えることを誰もが羨ましがった。
――師弟だったとしてもずっと愛情が欲しかった。
羨望の眼差しの中で、「寂しい」と訴え続ける幼い自分がいる。
「父上が合わないのは三成じゃなくて、俺なのかも……」
「大丈夫……タダヨシは良い子だよ」
初は忠吉の髪の乱れを手で整える。
「だから、ナイフもいつかはきっと分かってくれるはず。タダヨシが息子で良かったって思ってくれるはず」
忠吉の優しさは、本当はかけがえのないものだ。
家康はまだそれに気が付かないだけ。
初は本気でそう思っている。
「それまで負けないで頑張ろう! 私も頑張るからさ!」
忠吉は思わず初を抱き寄せた。




