第88話 その気はない!
佐和山城の自室で三成は目を覚ました。
緩やかな風が頬に触れる。
外の陽は傾いていた。
既に夕刻である。
美しい山並みに陽が沈んでいくのが見えた。
三成は半ば覚醒しない頭でその光景をじっくり眺める。
「美しい……」
「お目覚めになられましたか?」
女の声がして振り返る。
妻の宇多が、湯呑みを持って三成に渡した。
「……」
三成は喉を潤した。
そのまま妻の顔をじっと見つめる。
「何か……顔に付いてますか?」
宇多は恥ずかしそうに袖で顔を覆った。
橙色の小袖が夕陽を受けて輝く。
「いや……綺麗だな、と」
「まあ!」
宇多は嬉しそうに顔を輝かせた。
「貴方様がそのようなこと言うなんて、どんな風の吹きまわしですか?」
宇多はシナを作って冗談めいて笑う。
「いや……本当なのだ。本当にそなたの、全てが美しい」
三成は宇多の色の白い小さな顔をじっくり見た。
クリっとした瞳に控えめな鼻筋。
小さく形の良い紅い唇。
優しげな眉。
柔らかそうな胸元に細い腰。
若い頃、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)の弟・のちの大納言秀長の仲介で出会ったころからほとんど変わっていない。
不惑に近い歳だというのに、童顔で可愛らしい。
「そなたはいつまでも若いな」
三成は自らの口元に違和感を覚えて、近くにあった手鏡を覗き込む。
口髭を生やした気難しい顔がこちらを見つめる。
「……俺は、老けたな」
「そうでしょうか?」
宇多はコロコロ笑って慰めた。
鈴が鳴るような明るい声である。
「少しはお休みになられましたか?」
「うむ……」
戦士の束の間の休日である。
三成が一年で佐和山に戻れる日はそう多くなく、佐和山への蟄居を命じられてから、ゆっくり領内を回ったり、読みたくて積んでいた書物に触れたりしながら今までの時間を取り戻すように、人間らしい生活をしている。
三成は縁側に出て、城下町を眺めた。
城の門の所から手を振る者がいる。
兄の正澄である。
三成の留守中、この巨大な城を父・正継と共に護ってくれていた。
三成は大きく手を振り返した。
「お辰はどうした?」
三成は娘の名を呼ぶ。
「去年、北政所様の元へお預けしましたでしょう?」
「……そうであった」
お辰の舌足らずな可愛らしい声を聞きたかった。
甘えて父を呼ぶ姿が見たかった。
事態は風雲急を告げていた。
家康がまさに今、上杉征伐に向けて兵を集めて北征するとの情報を同じ五奉行の長束正家からの書状で知った。
家康の専横は目に余った。
家康は太閤秀吉亡き後、秀吉の定めた約定を次々と破っていた。
今立てば、上杉とこちらで徳川の軍を挟撃できる。
「宇多……俺は……」
夕陽を顔に浴びて三成は言った。
「ここに引きこもるぞ」
振り返ると宇多は大きい目をパチクリさせている。
「あ、あの……」
「俺は佐和山を離れない! 断じて離れない!」
三成は決意表明する。
「だって……俺はだいぶ佐和山が好きだ。お家が好きだ。何も辛い思いをして、なんか大義のためとかで大変な思いはしたくない!
考えてみたら、内府からはそのまま佐和山に居てね、みたいなことなんだろ? だったらことの推移を外から観察して、上手く立ち回って、佐和山でのんびり過ごしたい」
宇多は小首を傾げて困惑している。
「いや……だから、めちゃくちゃ大変なんだよ。ここから兵も武器も集めて、諸侯に手紙も送って……お金も……それだったら、今のまま宇多とのんびり暮らしたい! 絶対に離れたくない!」
「秀頼様をお護りしなくて良いのですか?」
宇多はじっと夫の顔を見つめている。
「貴方様がお護りしなくて、誰がお護りするのですか?」
可愛らしい唇からご尤もな正論が紡ぎ出される。
「まあ……まあ、そうなんだけど……」
三成は目を泳がせる。
「宇多……きっと誰かがやってくれる! 俺じゃなくても、きっと誰かが茶々様と秀頼様をお護りしてくれる。だから……」
三成は妻の膝に縋り付いた。
「だから……これからも二人で暮らそう! ちょうど良い! 藤原惺窩とか呼んじゃって講義を受けたい! 内記に前から頼んでたし! 今まで忙しくてやれなかったこと二人でやろう!」
宇多は笑顔を浮かべながら、ゆっくり袖に縋り付いた三成の手を振りほどく。
「貴方様はやることがありますでしょう?」
「いや……いや! 何もない! 特に何も思い浮かばない!」
日ノ本を東西で分けた未曾有の合戦なんて、起こしたくない。
「貴方様は……好きな……たいそう好きな……ありますでしょ?」
宇多の声は小さくてよく聞こえない。
しかし、三成の血の気は引いた。
「か、勘違いしている! 茶々様とは何もない! 指一本触れてない! 誤解なのだ。俺はそなた一筋だ!」
宇多は冷たい表情を三成に向けた。
「貴方様……とってもお好きなのでしょ? わたくし、知っているのです」
「ち、違う! これには事情があって」
三成は宇多の腕に縋り付いた。
力いっぱい引き寄せる。
フワリとした甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「そなた一筋だ……」
「貴方様の……好きで、好きで、たまらないもの。わたくし知っているのです」
宇多の力は案外強く、細い身体は微動だにしない。
「貴方様は誰にも止められない。わたくしでも、誰でも」
三成が口を開こうとすると、人差し指で三成の口に戸を立てた。
止めてくれ! と心で叫ぶ。
「貴方様の好きな……愛して止まない……」
宇多はニッコリと三成に微笑みかけた。
この世のものとは思えないほど美しかった。
「オ・シ・ゴ・ト♡」
◇
目を覚ますと木下頼継の顔がドアップでこちらを覗いている。
「叔父貴、たまってるんだな」
三成は頼継の腕をガッシリ掴んでいる。
「叔父貴、俺をオフトンに引き込もうと必死だったぞ。俺は申し訳ないけど、その気がないから……他を当たってほしい」
頼継はさも気の毒そうに三成を見つめた。
「違う! ……ってか勝手に入るな!!」
三成は歯を磨いて顔を洗った後、肩で風を切って大垣城の廊下を進んだ。
村田新左衛門の小柄な背中が見えた。
「もう大丈夫なのか?」
三成は村田に声をかけた。
村田は肩をビクッとさせて、振り返る。
三白眼が射抜くようにこちらを見つめ返した。
「おかげさまで……」
「うむ。無理をせぬようにな」
三成な村田の腕を軽く叩いて励ました。
「新左衛門!」
斜めの部屋から声がする。
長束正家の声である。
「お! 治部まで!」
長束正家は三成が顔を出すと言った。
胸元には子猫を三匹抱えている。
「ニャー」
「わ! 猫!」
三成が思わず声を出す。
「新左衛門、一匹、どうだ?」
サバトラ、キジトラ、茶トラである。
「新左衛門は几帳面だから、子猫の世話もお手のものだろう? どうだ?」
正家は村田に優しく微笑みかける。
「いいな〜猫!」
三成は子猫の鼻先に触った。
「治部はダメ! どうせ忙しさを理由に世話を左近に任せちゃうだろ?」
さすが正家。
痛いところを突く。
村田はサバトラの頭を人差し指で撫でた。
「この子をお迎えしたいです」
「おうおう! そうか。サバトラちゃん、良かったな。優しいお兄さんのところだぞ!」
正家はサバトラを村田に渡して、他二匹の里親探しに出ていった。
「可愛い……」
村田が子どものような顔で胸に抱いた子猫を愛でている。
三成はその光景に既視感を覚える。
長男の重家も幼い頃から小さな動物が好きで、鷹狩りに行って小動物を獲ってきた父を睨みつけて癇癪を起こしたこともあった。
懐かしい。
「新左衛門……良かったな」
村田新左衛門はハッとした様子で三成に何やら言いたげだった。
結局、彼は何も言わずに目を伏せる。
「恐れ入ります」
三成はサバトラの頭をひと通り撫でて、執務室へ向かった。




