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第82 関係ない!

 安藤は早瀬直希の姿を校舎の廊下に認めると走った。

 

 直希は足早に階段を駆け下り、理科準備室に入ろうとする。


 そこを呼び止めた。


「早瀬直希くん……だね?」


「……」


「ちょっと話があるんだ。変な話なんで……言いにくいのだけど」


 安藤は言い淀む。


 本郷真美子の時のような失敗を避けたい。


 真美子とはあれから関係はより一層ギクシャクしている気がする。


 表面上は以前よりすこぶる優しいが、腫れ物に触るような感じだ。


 眠れているか、気分の落ち込みはないか、などの体調を事細かに訊いてくる。


 もしかしたら教頭の望月先生あたりには相談が行っているかもしれない。


「君に……とある場所で会ったことがあるんだ」


 早瀬直希は安藤の顔を見ずに背中を向けたままである。


「信じられないだろうけど、そこは戦国時代で、私もなぜか武将で……君も。君もなんだ」


 安藤は直希の背中に一歩近づく。


「聞かせて欲しい。本当は何か知っているんじゃないか? 何かあの世界の秘密を。治部さんや、茶々さんや、刑部さん……みんなを助けられる秘密を、早瀬くんは知ってるんじゃ……」


「あの!」


 直希は振り返って安藤を手で制した。


「あの……もうこの件に関わらないでいただけますか?」


 目線は合わせない。


「この件は、極めて……極めて早瀬家のプライベートな問題なんです」


 直希の長いまつ毛が震えている。


 華奢だが背が高い。


 クォーターと聞いていたが色白でギリシャ彫刻のような顔をしている。


「だから、ちょ……安藤先生にあんまり首を突っ込まれると困るんです」


「今、『ちょ』って言ったよね?」


「とにかく! これは早瀬家の問題なので! プライバシーの侵害ですよ! 教育委員会に連絡したっていいんですよ!」


 直希は白い顔をみるみる紅潮させて脅した。


「絶対に、関わらないで!」


 理科準備室の扉がバタンと閉められた。


 安藤は唖然としながらも直希の言葉を反芻はんすうする。


――関わらないで。という言葉はあの世界が嘘だったとは言っていない。


 言うなれば本当だったと言っているに等しい。


 結論……早瀬直希は、救いを求めている。


「何か……修羅場ッスか?」


 振り返ると与田真佐人がチャラチャラと髪をかき上げながら安藤を見つめている。


「何か、あったんスか?」


 安藤は与田真佐人のピアスを見つめた。


「いや……与田くんが特に心配することは……」


 変なところを見られてしまった。


 与田真佐人は妙な頃合いに姿を現す。


「あれ? 与田くん……?」


 安藤ははたと気が付く。


 ずいっと顔を近づけて、真佐人を見つめる。


「は? なんスか? こ、怖い!」


「き、君! 与田真佐人! なんで気がつかなかったんだろう! 惣次郎! 高坂惣次郎の相手役だよね!」


 安藤は真佐人の両肩をガッシリと掴んだ。


「うぉ! マジか! 何その急変! 誰かマジ助けて!」


「観たよ! 『新解釈・ロミオとジュリエット』! 惣次郎はまだまだだったけど、君はけっこうサマになってた! 上手だったよ!」


 真佐人は安藤の勢いに後ずさりしながらも、頭を軽く下げた。


「マジかぁー! アザース!」


「え?」


「いや……嬉しいっス。俺って役者向いてるかもですね」


 安藤は真佐人の返答にしばしフリーズする。


「え? ということは本当? 本当に起こったこと?」


 真佐人は安藤の様子を見て吹き出した。


「んなわけないじゃないですか?! ゲームですよ。何かカノジョの家にあった古いゲーム……何ていう名前だったかな? 旅の芝居一座の話で。確かに惣次郎とかいうのが主人公でした」


 安藤のつぶらな目が輝く。


「ゲーム……やりたい」


「え?」


 安藤は掴んだ真佐人の肩に思わず縋り付いた。


「そのゲーム、やらせてください!!」



  ◇



 茶々はひとり自室で出たばかりの月を見上げている。


 もしかしたら、この世界で平和が訪れて幸せになれるかもしれない……。


 心臓が高鳴った。


 本当の幸せが自分の身に訪れることなんてあるのだろうか?


 信じられなかった。


 ゴロンと寝転がる。


 ずっと、あの人とはああなりたかったのかもしれない。


 知らぬ内に、秘めていたことが眼前に突きつけられたのだ。

 頬が熱くなる。


 今まで我慢をすることだけを自らに強いてきた。


「自由に生きても良いのかな……」


 茶々は自由、と声に出してみる。


 自らの白い手を見る。


 きめ細かい肌が月明かりで光って見える。


「私……綺麗なのかも」


 ずっと自分を否定し続けて生きてきたから、自分を愛するすべが分からない。


 茶々は鏡を手に取って、顔を映してみた。


 月明かりに映し出された顔は紛れもなく恋をしている女の顔だ。


 母の市より今は輝いているかもしれない。


 突然ノックの音がした。


 乱れた髪と襟を直す。


 もしかして……今日は政務が早く終わったのだろうか。


 扉を開けると、戸田内記の姿があった。


「明かりをつけに参りました」


「……ありがとう」


 茶々は内記にニッコリと微笑む。


「最近は全てが落ち着いているわよね」


 灯し油に火を入れている内記の後ろ姿に茶々は話しかけた。


「何だか……このまま、こんな感じで過ごせそうな気がして。内記もそう思わない?」


 ぼんやりとした灯りが室内を照らしている。


 内記の顔は深い影に覆われている。


「僕は……思わないですね」


「そう?」


 少しだけそっけない返答に茶々は内記の横顔を見つめる。


「僕の心は……落ち着いてなんか無い……荒れ放題に荒れてますから」


「……何が、あったの?」


「受験もそうだし……貴女も」


 内記の声は震えて掠れている。


「貴女のことも……僕は……憎い」


 内記はゆっくりと振り返った。


 ゆらゆらとした灯し油の光を受けているが表情は相変わらずよく見えない。


「憎い……大好きなのに……助けたいのに……どうしていいか分からない。ねえ! 今が幸せ? 治部様がいるから? 僕がいなくても? お父さんがいなくても? 幸せ?」


「何言ってるの? 分からない」


 茶々の唇は震えた。

 怖かった。


「お母さん……!」


 内記は茶々に向かって叫ぶ。


「お母さんは……今、幸せなの? 僕とお父さんはどうしていいか分からないよ。治部様が好きなの? それとも……杉山って人?」


「別に杉山くんのことは……」


 茶々は思わず言い訳をした。


「杉山……くん……」


 茶々は雷に撃たれたように全てを思い出す。


 杉山くん。直希。はる……私の夫・早瀬治。


「ああ……そうだった! 何で私、忘れてたんだろう? おかしい。私……何で?」


 茶々は床に崩れ落ちた。


「何で? 私は……直希……!」


 茶々は細い腕で内記に縋り付こうとする。


 内記は振り解いて足早に茶々の部屋を出た。


「直希! 待って! 直希!!」


 お母さんが大好きだ。


 なぜこんな世界に来てしまったのだろう。


 こんな世界知らなければ、これほど苦しむこともなかった。


 戸田内記は昨日の雨で泥濘ぬかるんだ土に足を滑らせた。


 泥まみれで慟哭する。


 何もかもが嫌になる。


 全てが針のような感情となって、内記に突き刺さった。


 内記の頬を涙が止め処なく流れた。


 西軍のプレイヤーは戸田内記。


 ただひとつ言えることは、自分の責任に於いてこの世界を導かなくてはならない。


 それが母を救うたった一つの方法なのだから。

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