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第78話 頑張れない!

 徳川家康は客間に待たせていた藤堂高虎の姿を盗み見た。


 螺鈿らでんをあしらった猫足の舶来のテーブルと、朱色の華奢な足のチェアのセットの間に高虎の巨体がいかにも狭そうに収まっている。


 こうして待っている間にこそ、その者の本心が出る。


 その昔、五奉行とはよく伏見や大坂で会談した。


 微かに襖を開け、奉行たちの様子を盗み見たことがあった。


 浅野幸長(よしなが)の父・浅野長政などは直前まで悪態をついていたが、家康が入ると打って変わって手を握らんばかりのおべっかを使ってくる。


 増田長盛も切り替えが上手かった。


 前田玄以や長束正家は、直前にだらけていても家康を前にすると緊張した面持ちになる。


 ひとりだけ全く態度の変わらない男がいた。


 石田三成である。


 姿勢の良い姿を崩さず、会議が始まる前も終わった後も変わらず不遜ふそんな態度であった。


 藤堂高虎は喉が渇くのか、忙しなく水を飲み、懐紙で汗を拭ったりしている。


 家康は襖を開けた。


「上様、ご機嫌麗しゅう」


 家康は高虎の挨拶を手で制した。


「挨拶はよい……本題に入ろう」


 高虎が持ってきたのは、詩吟の書かれた手紙である。


「詩吟とは……考えたな」


 家康は思わず微笑む。


「はい。上様、忠吉様と新しい女御との御婚礼。勧めさせていただいてよろしいでしょうか?」


 家康は頷いた。


「これからはこのような誤魔化しや工作はせずとも、堂々と公式の書面でやり取りを行おう」


 嫁ぐのが茶々では無く、家康にとってはかえって好都合である。


唯一の女だからふざけた『降嫁こうか』などという名目も我慢したのである。


 何が『降嫁』だ。


 上から降ってくるつもりとは烏滸おこがましい。


「あの女がこちらに嫁ぐことは、出来れば避けたかった」


 家康は茶々が昔から嫌いだ。


 あの大きな黒い瞳に見つめられると、嫌な心持ちになる。


 信長に似ている――家康は冷や汗をかく。


 自身を射抜くような目は、かつて弱かった自分を想起させる。


 家康の怜悧れいりな頭脳に対して一時的に機能を鈍らせるうえ、決断にまで悪影響を及ぼしかねない。


 秀吉が自分への嫌がらせのために茶々を側室にしたのではないか、と疑ったほどだ。


 そんなことはあり得ないのだが。


 あの女が自分の目の届かないところに行ってくれたらよっぽど良い。


 但し、この前のように恥をかくわけにはいかなかった。


 東軍内は以前よりも一枚岩とは言えない状況が続いている。


 これ以上、虚仮にされたら、東軍から心が離れ、西軍に心を傾ける者が出るかもしれなかった。


「大谷刑部は……きちんと実行するのであろうな?」


「信頼して間違いないかと」


 高虎は真剣な面持ちで言った。


「何が目的だ?」


「……自身が淀をめとりたいようです」


 家康は目を細めた。


 大谷刑部はどちらかというと、欲がなくリアリスト。


 そういったイメージを抱いていた。


 だから淀のお腹の子の父が大谷と聞いて、意外に思ったものだ。


 病が彼の猛々しい衝動を抑えていたらしい。


「兵部殿(井伊直政)には……どういたしましょうか?」


「それは、何とでもなるからそなたが気にすることでは無い」


 家康が諦めろと言ったら、井伊直政は素直に従うだろう。


「金吾殿の処分は決まりましたか……?」


 高虎は気になっていたことを思い切ったように尋ねる。


逼塞ひっそく、とした」


 伊奈図書が受けた蟄居ちっきょ謹慎より軽い。


 短い時間の外出は許される形だ。


「しかし……終身だ」


 高虎は驚いて目を大きく見開いた。


 そんなに長い期間の逼塞は前代未聞である。


「それは、金吾殿は猛反発するのでは?」


「……ワシに赦されるまでは、従ってもらう」


  家康は秀秋の驕慢きょうまんな表情を思い出す。


 思い出すだけで嫌悪感で肌が粟立つ思いがする。


「まあ、既に金吾の役割は終わったからな……」


「……どういうことでしょうか?」


 高虎が不思議そうに目を瞬かせた。



  ◇



  ほんの一刻(約二時間)ほど前のことである。


 村田新左衛門が控えている間に、家康は人目につかないように忍び込む。


 村田は既に平服している。


「新左衛門、こんなところまで来て? いかがした?」


 おもてを上げよ、と声をかけると村田新左衛門は緊張した面持ちのままこれまでの経緯を話し始めた。


 今、三成が留守であること。


 大坂から人が飛ばされて現れる場所が判明したこと。


「その『洞窟』とは伊吹山の洞窟のことか」


 家康は思い出す。 茶々がこちらに乗り込んだ時、子を授かった場所を「洞窟」と言っていた。


 その洞窟はどうやら伊吹山の洞窟らしい。


「でかしたぞ。新左衛門!」


 小早川秀秋を放っておいたのも、この事実を確かに掴むためである。


 確かに人が西軍で死ねば、伊吹山の洞窟に代わりに人が飛ばされてくる。


「これでもう、あの女の好きなようにはできぬはず」


「……あの女とは、茶々様のことですか?」


 家康は頷く。


 この世界はおかしなことばかりである。


 ただ説明がつくとすれば、茶々が男どもを侍はべらし、自身の王国を創り上げるための舞台のようだ、と家康は感じる。


 家康にはこの世界を茶々の思い通りにさせない、という大義がある。


「あまり……そのようなタイプの女人とは思えませんが」


「新左衛門。女は恐ろしいぞ」


 家康の妻……秀吉に押し付けられた朝日姫を除けば唯一の家康の妻。


 築山(瀬名姫)の冷たい表情を思い出す。


 築山が家康の長男・信康を冥土に一緒に連れて行ってしまった。


 信康が今、生きていたらどんなに心強いだろうか。


 秀忠や忠吉より、よっぽど優秀だった信康を家康から引き裂くように連れて行ってしまった。


 家康は自分の妻が憎かった。


 築山の気位の高い、見下したような目線を思い出す。

 狂おしいほど愛おしかったのに。


「新左衛門、これからも頼むぞ」


 家康は村田の肩に手をやった。

 力強く揺さぶる。


「あ、あの……もうこのお役目、お役に立てそうにありません」


 村田はおずおずと家康に言った。


「大変に不甲斐なく、申し訳ありません……」

 

 村田の瞳が揺れている。


「私は……もうこのまま東軍に加わりとうございます。こちらでお役に立てることもあるかと。間諜スパイは違う者のほうが疑われずに済むかと思います」


 村田は息をスゥっと吐いた。


「ちと、私はやり過ぎたようで……三成めに疑われておりますゆえ」


「いや。そんなことはない。そなたは実に上手くやっておる。疑いなど無い」


 家康はピシャリと言い放つ。


「これからもワシのために働くのだ。治部の懐へ入り、アヤツの柔らかな弱い部分を打ち破れ。それがこの世界の平穏に繋がるのだ」


 家康は目を細めながら村田に説いて聞かせた。


「期待しておるぞ。新左衛門」


 家康は立ち上がり踵を返して出て行こうとする。


 村田は思わず家康の足元に縋り付いた。


「無体にございます! どうか、どうか、このお役目、違う者へ!」


「おぬし……誰に触っているか分かっているのか?」


 ハッと村田は息を飲む。


 家康の足に触れた手がどうしようもなく震える。


 震えながら手を離した。


「も、申し訳ありませぬ……!」


 家康は跪いて、村田と目線を合わせた。


 ニッコリと優しげな笑みを浮かべる。


「新左衛門、頑張れるよな?」


「……はい」


 家康は頷いて、肩にポンッと手をやる。


「新左衛門、心配するな。おぬしのことは息子のように思っておる」


 家康は慈愛に満ちたような深い目の色をしている。


「けして、ワシはおぬしを悪いようにしない。見捨てたりしない。安心してワシに付いてこい」


 村田は這いつくばるように平服した。


 家康が出ていって襖が閉まる音が聴こえる。


 衣擦れの音が遠ざかる。


「もう……これ以上、できない」


 村田新左衛門は泣いていた。


 もう、これ以上は頑張れない。


 自分は間諜には向いていない。


 情が深く、人を欺けば欺くほど己が傷つく。


 深く深く、ジクジクと傷が痛む。


「上様……上様!」


 村田の嗚咽は家康の耳に入ることは無かった。


「父上様……母上様……」

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