第73話 生きている意味がない!
大谷刑部は先ほど届いた封書を開けた。
差出人は藤堂高虎である。
中身は詩吟である。
大谷は懐から小さな地引らしき本を取り出し、熱心に高虎の手紙をなぞる。
先だって、東軍諸侯を饗応した際に藤堂高虎のテーブルに行き、同じ地引をこっそりと渡してある。
モールス信号。
詩吟は右側に吟符と呼ばれる節をつけるので、三角の点と伸ばしの符号でちょうどモールス信号に置き換えられる。
たとえ東軍の関所で開封されて、検閲が入ったとしてもよっぽど詳しい者でなければ趣味のやり取りに見えるだろう。
現に、藤堂高虎からの手紙には右端に青い検閲印が押されている。
「感謝する……和泉守」
大谷は独りごちて手紙を懐に戻した。
◇
初は窓の外に大谷刑部の長身を認めると、鏡の前に行き少し前髪を整えた。
自分でもその行動の意味は分からない。
ただ普段より少し胸が高鳴るのを感じる。
湯浅五助が大谷刑部の来訪を伝えにやってくる。
初は何事もないかのように、自然に頷いた。
「初、散歩に出ないか? 外は気持ちが良いぞ」
「私、寒がりだからここにいたい」
火鉢の火がパチパチと燃えている。
大谷は静かに微笑んで、初の傍らに長身を折りたたんで座った。
初の顔を覗き込む。
「元気にしておったか?」
「……まあね」
初は、会いに来るのが三成から大谷に変わってから面会を心待ちにする気持ちがあることに気がつく。
「また茶々様の話を聞きたい!」
初は大谷に甘えるようにせがんだ。
初は茶々の生い立ちに興味津々であった。
大谷は物語を紡ぐように、茶々のこれまでの人生を語った。
そして今の状況も。
初は想像上の茶々に親近感を覚えていた。
本当の姉のように感じる。
憧れというよりは、むしろ護ってやらねばならないという正義感が先に立つ。
苦労続きであったシンデレラが幸せを夢見ることを応援するような気持ちである。
「幸せになれるのかな? 茶々様は」
「幸せにするよ」
初ははたと大谷の顔を見た。
「そのために、今日は初にお願いをしに来た」
初はどうしてか分からないが、一瞬で胸の中の何かが蠢いた。
苦しい。
「私に関係ない」
「初にしか、できない」
こんなによく知らない男に恋をするなんて、普段の自分では考えられない。
やはり、関ヶ原にひとり飛ばされたことは初の心にストレスを生じさせ心細い思いを埋めるかのような感情を生じさせたのだろう。
「徳川家康の息子・松平忠吉のところへ嫁に行ってほしい」
初は大谷の顔から視線を逸らした。
「貴方も所詮、ミツナリと同じなのね……女を駒にしか見てないみたいね」
「人はみな、駒だ。でも初は飛び切りの飛車角だぞ」
大谷は冷酷にも笑顔を見せる。
「人間には、それぞれ役割がある。初はただ嫁に行くのではない……東軍と西軍を繋ぐ架け橋になってもらいたい」
大谷は切々と初に訴えかける。
「お前は才気があって、物事を見る目も確かだ。ゆえに、東軍へ行って和平の礎を築いてほしい」
「……卑怯だとは思わないの?」
初は悔しいから人前で絶対に泣かないと決めている。
「自分の想う女以外はどうなっても構わない? 不幸になっても構わない? 貴方ってある意味凄い! 冷酷な人間って言われない?」
大谷は初に言われてはじめて気がついたような顔をした。
「俺は……愛のためなら死ねる」
自らの言葉に驚いたような表情をしている。
「俺は……そうだな。きっと冷酷なのだ。愛のためならどんなことだってする。
息子の命だって親友の命だって喜んで差し出す。俺は狂っているのだ」
大谷は少しずつ、普段の余裕のある表情に戻る。
「いつから狂っていたのか……生まれついた時からなのか分からない。だから金吾は俺に襲いかかったのだ。同じ狂っている者同士だったから」
初はなんだか怖くなって訊いた。
「茶々様は貴方の恋人?」
「いや……目下、治部との鍔迫り合いだ」
「貴方の勝ちでしょうね……」
「いや……よく知らねば分からないだろうが、治部は俺よりもっと女にとっては悪い男だぞ」
大谷は思い出したように微かに笑った。
「女があの男に惹かれる気持ちが分かる」
口元で長い指を組む。
「リアルでなければ生きていけない……理想がなければ生きている意味がない」
大谷は私立探偵フィリップ・マーロウの名言『タフでなければ生きていけない。 優しくなければ生きている資格がない』をもじった。
「初……俺のために、西軍のために、行ってくれ! 松平忠吉の元へ」
大谷はグイッと初に近寄り、初の手首を乱暴に掴んだ。端正な顔が近づく。
「この狂気を……お前以外の女は分からぬ」
初は途端に目の前の男が恐ろしくなった。それと同時に頬が熱くなる。
「この狂った心を、理解するのはお前だけだ」
◇
村田新左衛門が伊吹山を登るのは初めてである。
かなり急な勾配に息が上がる。
竹筒から冷えた水を喉に流し込む。
梅の花が見えて、春を感じる。
この風景は長宗我部盛親が見たがっていた風景だ。
茶々や木下木兵衛こと増田長盛がどこからやってきたのか、今まで見当もつかなかった。
大坂に居たはずの人間が突如として関ヶ原に現れる。
氷室で、長宗我部盛親が洩らした「伊吹山」というキーワードによって全てが繋がった。
石田三成が最期に隠れた伊吹山の洞窟に彼らは現れる。
それが村田新左衛門が出した応えだった。
「早く、あの方にご報告せねば」
いつもあの方の慧眼には舌を巻く。
関ヶ原で時空のバグが起こったすぐ後に、村田の元へ天下の徳川家康が僅かな供を連れてやってきたのである。
村田はにわかには信じられなかった。
不安を抱えた村田の肩を抱き抱えるようにして、彼が言った言葉を思い出す。
「治部は、誰よりも早くこの世界の謎を暴くぞ」
若々しい容貌からは想像できないほど、落ち着いた低い声である。
「但し、本当の勝者はこの世界の真実に早く辿り着いた者ではない。その真実を利用する者だ」
その黒々とした瞳が村田の顔を覗き込む。
「すなわち、お前に与える役割は、治部の信頼を勝ち取り、安心させ、刻が来たらワシに報告する。だから、すぐに何かをしろと言うつもりはない」
家康は村田の肩をポンポンの叩いた。
「とにかく、治部に取り入り、ヤツの懐に入れ。お前がワシの役に立ちたいと願うのであれば……一見、西軍のために身命を尽くして働いているように見えても構わない」
家康は再び村田の肩を強く抱く。
「新左衛門、期待しているぞ」
村田は恐ろしい。
徳川家康という男が恐ろしい。
家康にはじめて会ったのは、小西行長が開いた葡萄酒を振る舞う会にてであった。
末端の小姓に過ぎない自分に、かの老人は腰を折るように挨拶を寄越した。
その後すぐに村田の元に間諜の誘いがあった。
恐ろしく思う気持ちと同時に強烈な憧れが沸き起こってくる。
あの方のようになりたい。
家康のように全てを見通せる目が欲しい。
洞窟内は灰色でガランとしている。
壁に隙間がある。
奥は暗くてよく見えない。
足元に血のついた鳥の羽が落ちている。
手に取ってみると、羽根には赤黒く血のようなものがこびりついている。
誰かがここで鳥の羽根を毟ったのだろうか。
人間の足音が近づいてきた。
村田は慌てて洞窟を後にする。
羽根は特に意味をなさないと考え、捨てていく。
木陰に隠れていると、大谷刑部家臣・湯浅五助が洞窟に入っていくのが見えた。
巡回しているのだろう。
こんな何の変哲もない洞窟を大谷家の重臣が巡回するとは、大坂から人が飛ばされてくることのなによりの証左である。
――あの方、上様にご報告だ!
きっと喜んでくれるに違いない。
三成の留守は家康と接触を図るチャンスである。
村田新左衛門は逸る気持ちを抑えながら、伊吹山を降りた。
途中、木の根に足を取られ、派手に転ぶ。
――大丈夫か? 新左衛門!
三成の声が聴こえたような気がして思わず息を飲む。
村田は手の泥を叩いて落とした。立ち上がろうとすると涙が溢れた。
「ううっ……!」
自分に生きている意味があると思いたい。
裏切りは世界のためになるのだと思いたい。
三成を傷つけた先に、平和な未来があると思いたい。
村田新左衛門は膝をついたまま、長らくその場を動かなかった。




