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第68話 毒じゃない!

 執務室を出たところで待っていたのは島津義弘である。


 抜けるような色の白さを除けば、色黒で精悍な顔の甥の豊久に似ている。


 城に足を運ぶこと自体、珍しい。


「甥がいつも失礼を……」


 島津義弘は、甥の豊久の日頃の無礼を詫びた。

 長い睫毛を伏せる。


「今は……ちょっとお話するのが難しいです」


 三成はフラフラと頭を抱えながら壁にもたれ掛かった。


 義弘を案内したであろう村田が慌てて駆けつけ身体を支えようとする。


 三成は村田の支えを断って、氷嚢ひょうのうだけ受け取った。


 左頬がジンジンと痛む。


「すぐ済みます」


 義弘は懐から白い布を取り出し、広げた。


 中央に緑色の小さな陶片が現れる。


「伊賀焼……ですか?」


 三成は陶片を手で摘んだ。

 緑色の釉薬ゆうやくが日の光を受けて光っている。


「当家の佐久川喜重郎が出奔しゅっぽんした際に私に残して行ったものです」


 佐久川喜重郎が小早川秀秋に間諜スパイとして送り込まれたのが島津家である。


「喜重郎はもし自分の身に何か起これば、必ず治部殿にこれを渡すよう私に頼んでから去りました」


 あの取り調べの後、三成は雨に消えて行った喜重郎の背中を思い出す。


 ずぶ濡れのその足で、騙して潜り込んだ形になった島津義弘の元へ律儀にも別れの挨拶に向かったのか。


「お役に立てそうですか?」


 義弘は憂いを帯びた目で三成を見た。


「いや、分かりません」


 三成は陶片を包んだ布を懐に押し込んで、正直に応えた。


 義弘に礼を言って頭を下げる。


「今は何の意味かは分かりませんが……いずれ、役に立つでしょう」



  ◇



 恵瓊が仕切る饗応がスタートしたのは暮六ツ(午後の7時)である。


 小姓たちが各テーブルの給仕に動き回っている。


 長宗我部盛親が救急で城内に運び込まれたことを知っているのか、東軍の面々の表情も幾分固い。


 ただ表面上はみな穏やかに談笑しながら過ごしている。


 小早川秀秋の登場までは。


 大広間に集まった諸侯ら50名ほどが一斉に静まり返った。


 秀秋は気にする素振りも見せず席に座ると、にこやかに周りを見回し会釈した。


 淡い薄紫の小袖が和蝋燭の光に美しく照り出されている。


「葡萄酒まであるのか!」


 秀秋は葡萄酒のガラス瓶を手に取った。

 両手にはピッタリとした黒い革手袋を嵌めている。


 葡萄酒は大垣城に僅かに残されていた舶来はくらい品である。


「売店でお土産もございます」


 秀秋のテーブルは村田新左衛門が付いた。

 村田はすかさず勧めた。


「フッ、土産物は金を取るのか……相変わらずケチだのう、治部は」


 秀秋はつまらなそうな顔で葡萄酒の瓶を戻す。


「見ぬ顔だな」


「お初にお目にかかります。小西行長家臣・村田新左衛門と申します」


 村田は膝を折って慇懃いんぎんに挨拶する。


 秀秋はエクボを見せてニッコリした。


 気に入ったらしい。


「新左衛門、酌をしろ」


 大谷刑部は藤堂高虎のテーブルに酒の入った瓢箪を持って近づき、微笑んで会釈した。


「や! これは刑部殿」


 大谷と高虎の親交は実は生前はあまり無い。


 但し、関ヶ原以後、大谷の墓を建てて弔ってくれたのは藤堂高虎である。


 病のため、醜く崩れた顔を敵に見られたくなかった大谷は湯浅五助に、自らの首を地中深くに埋めるように命じた。


 湯浅五助を捕らえた藤堂軍は主君の首の在りかを明かさない五助の忠義心に感動し、家康への首検分へ持っていくことを拒んだのである。


 大谷は高虎の厚情に感謝している。


 高虎が掲げた盃に瓢箪徳利から透明な酒が並々と注がれた。


「刑部!」


 大広間に秀秋の甲高い声が響く。


「俺にも酌をしろ!」


 東軍諸侯はざわめいた。


 秀秋は口元に笑みを浮かべて、盃を差し出す。


「酌をしろよ。刑部」


 大谷は微笑んで秀秋の側に長身を折りたたんで跪いた。

 並々と酒を注ぐ。


「毒でも入ってるんじゃないか?」


 秀秋は挑むような目をして言ってから、酒を一気に扇いだ。


「そんなわけないでしょう」


 大谷は微笑む。


「もし毒が仕込まれているとしたら、盃のほうでしょう」


 秀秋がカタンッと盃を落とす。


 秀秋は縋るような目線で大谷を見た。


「冗談だよ。金吾」


「金吾」


 名を呼ばれて振り返ると、三成が幽霊のように立っている。


 かみしもは血が乾いて、赤黒く染まっている。


 三成は敢えて着替えずそのままの姿で大広間に来た。


 秀秋は席から立ち上がって笑った。


「治部! 久しぶりだな。いつもに増して顔色が悪いぞ! もしかして……何かあったのか?」


 秀秋は大げさにとぼける。


「まさか、こんなハレの日に誰かが殺されたなんてことないだろうな? 西軍の要人警護の失態だぞ。責任の所在はどうなっているのだ? 我らも怖くておちおち饗応を楽しんでおれない」


 秀秋は再び手に持った盃をヒラヒラさせながら、三成の方へ歩み寄って行った。


「そもそも日常的に殺人が起こるような警備体制というのが異常というもの。

 おぬしは内府にアドバイス貰ったほうが良いのではないか?」


 秀秋は三成の目と鼻の先に来た。


 見下す目が昏く底光りしている。


「金吾……気の毒なやつ……」


 三成は思いっきり蔑んだ目で秀秋を見上げる。


「貴様をかわいそうだ、と思っているのだ。 愚かで、節操もなく、底意地が悪く、愛する人も、愛してくれる人もいない」


 三成は微かに笑った。


「臆病で、慢心があり、身勝手で……卑劣」


 三成の目が生き生きしてくる。


「三千世界見回しても、お前ほどかわいそうな者は他にいないだろう。

 ゲヘナで業火ごうびに永遠に焼かれ……愚昧ぐまいでワルキューレに選ばれずヴァルハラに辿り着くこともできない……その無明むみょうから俺が慈悲の心で貴様を救ってやるぞ」


「……は?」


 秀秋の笑顔が凍りついた。


 三成が何を言っているのか分からない。


「金吾! 俺が貴様を救ってやろう! かわいそうなお前にこの俺が光を与えてやろう!」


 三成はビシッと指を秀秋の鼻先に突きつけた。


「それまで、せいぜい震えて眠れ!」


 三成は踵を返すと、肩で風を切って廊下を去っていった。


 後から秀秋の哄笑こうしょうが響く。


「見たか? みなのもの、負け犬がよう遠吠えしよる! この俺を、勝ち組の俺をバカにしよった!」


 黒田長政が腕を組んで呆れた表情で見ている。


「俺を救うだと?! 負け犬めが! 偉そうに! 慢心はどちらだ! クソが!」


 秀秋は叫びながら盃を投げた。



  ◇



 徳川家康は暗闇で囲碁を差している。


 相手はいない。


 自分自身とである。


 白と黒の碁石をいくつか丸めて手のひらに収める。


 ゆっくり擦り合わせて、そのひんやりとした感触を楽しむ。


「上様、長宗我部盛親殿、何者かに殺害された模様……」


 家康の放った忍びからの報告を小姓が家康に報告した。


 側に控えた忠吉が目を尖らせる。


「父上……これは早急に対応せねば」


 暗闇に行灯あんどんの火を使わないのは節約からである。


 そもそも煌々と照らされた夜が好きではない。


 息を潜め、物事に集中できる夜が好きだった。


「忠吉、焦ってはならぬ」


 家康はまるで童子のような顔を息子に向けた。


「おぬしら若い者は、すぐに焦る。焦るから動き回って、結果良くない」


 家康は碁石を手の中で回す。


「こういう時ほど、グッと動かぬ……それが肝要だ」


 忠吉は納得のいかない表情をしている。


 よく見えないが恐らくそうだろう。


「そもそも、金吾ごときに惑わされることはない」


 忠吉は父に食い下がった。


「しかしながら……金吾をこのままにしておけば、東軍諸侯の中にも嫌気が差す者たちも出てきましょう」


「捨てておけ」


「放っておいて、良いことなどないかと!」


 家康は忠吉を一瞥いちべつする。


「あちら側には、もうすでに矢を放ってある」


「矢……とは?」


「アヤツの心の臓に着実に迫っておる」


 家康は自身の胸を空いている手で抑えた。


 ゆっくりした鼓動を確かめる。


「忠吉。小さなことで心配せずとも、この度もワシが勝つぞ」


 忠吉は弾かれたように父親の顔を見つめる。


「アヤツ……三成の一番柔らかいところを矢がえぐるように……もう既に手は打ってある」


 家康は黒い碁石をひとつ碁盤に戻した。


「三成……そうなった時、お前はどう出てくるのだ?」


 少しは対戦を愉しみたいと思う。


 ラブゲームのような一方的な勝利ではつまらない。


 我ながら合理的とは言えない薄暗い思考に家康は心の中で苦笑した。

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