第60話 知らない!
伊吹山の麓に一軒の閑静な屋敷がある。
モノノ怪が出る、などと噂されているが、普段は人の気配は無い。
ただその日は、慌ただしく人馬が飛び交い、何名かの武士たちが物々しく出入りをしている。
煌々《こうこう》と照らされた篝火が消えて、夜半には屋敷は静まり返った。
和蝋燭の炎に照らされて、御簾越しに見える座った女の形に、三成は息を飲む。
御簾を上げて入ると、警戒したのか女はサッと短剣を胸元に構えた。
瓜実顔の曲線が美しい。
「安心せよ。何もしない。名前は?」
「……初」
「初……良い名だ」
三成は静かに歩み寄って跪き、初と目線を合わせた。
「俺は石田治部少輔三成。驚いただろうが、悪いようにはせぬゆえ、おとなしくしばらくこの屋敷で」
「あの……誰?」
初は眉根を寄せてストレートに尋ねる。
「イシダ……誰?」
「えっとぉ……もしかして、知らない?」
「ごめん。もしかしてけっこう有名な感じ? ほら。私、帰国子女だから」
初はサラサラの黒髪をかき上げながら言った。
「そ、そうなんだ! そっかそっか。じゃあ、どうしようかな?」
「あ! でもミツナリって人、聞いたことある! もしかして毎年負けてる人? インフルエンサー? ヤバ!」
「……一回しか負けてない!!」
三成の眉間のシワが深くなる。
「もうダメだ。腹痛い」
側で様子を見ていた大谷が涙目で静かに受けている。
「ゴメン! ゴメン! 本能寺の人だよね」
初は三成に向かって顔の前で手を合わせる。
「本能寺、関係ないよ! よく間違えられるけど。もうキミ、ちょっと黙っててくれる?」
大谷が流石に耐えきれず大笑いしている。
「お前! 笑うな! 腹立たしい!」
三成は大谷に指差して噛み付いた。
初の身の回りの世話を湯浅五助と八十島助左衛門に任せて大谷と三成は帰路についた。
三成はめちゃくちゃ疲れている。
「フフフ、マジで傑作だったな!」
大谷が思い出し笑いを続けている。
「たいへんに良き女子でしたなぁ」
渡辺勘兵衛は満足気に頷く。
三成は初の涼やかな目元と、ふっくらした女性らしい頬を思い浮かべる。
確かにたいへんに可愛らしい。
ただ……全く日本史を知らないので、これからの説明が超難問である。
――無事にこの世界に溶け込んでくれるのだろうか。
佐久川喜重郎の死体が小舟に乗って川岸に着いているのが確認されたのは今朝のことであった。
川岸の警備に着いた者が朝靄の中で発見したのである。
「死ぬなと言ったのに……」
三成は喜重郎の死体に手を合わせた。
心の臓を一差しである。
それほど苦しまずに逝ったと思いたい。
「革靴の跡がある」
舟の端の方を平塚為広が閉じた扇で丸く囲んで指し示す。
草履よりも大凡の寸法は分かりやすい。
念の為、尺を測り記録を取っておく。
城に戻ると、既に湯浅五助から報せがあった。
今回大坂城から飛んできたのは、女だった。
三成は伊吹山の中腹に監視用の番屋と、麓に大坂城から飛んできた者を一時的に囲っておける屋敷を以前から秘密裏に整備していた。
麓の屋敷へ、洞窟に飛んできた者をまずは住まわせると決めていた。
翌日、茶々に三成は報告した。
執務室メンバーと恵瓊には昨日の内に伝えてある。
「初? かわいいお名前」
「聞いたことはありませんか? お付の女中とか」
三成の質問に茶々はゆるゆると首を振った。
「お城へは来ないの?」
茶々は期待を込めた目で三成を見る。
同性と話ができる機会が訪れたことが嬉しい。
話したいことが山程ある。
「会いたいな」
茶々の言葉に三成は渋い顔をする。
まだ東軍に気付かれたくない。
「会いたいです」
茶々がもう一度言った。
「いずれ、おいおい」
三成は誤魔化す。
「誰かが死ねば、誰かが来るのね」
「気が付いてましたか?」
茶々はコンコンと降り積もる外の雪を見ている。
大きな黒目が雪の欠片が降り注いだみたいに光っている。
「どうしてこの世界はこんな意地が悪いようにできてるのかしら?」
茶々は小首を傾げる。
「さぁ……良いところもありますが、悪いところもありますね」
「良いところって何?」
「病も老いもないし……あと、貴女がいるところかな」
「……」
「さっ! じゃあ俺はこの辺で」
茶々は妙な顔で三成の顔を凝視している。
――変なこと言ったかな。
三成は茶々の部屋を出て、中庭を見た。
大谷家長男・大谷吉治が雪の中でも、兵士たちに稽古をつけている。
――この雪では金吾のところへは行けないな。
予定通りであれば、今日にでも小早川秀秋の元へ左近と忍んで乗り込む予定だった。
「殿」
左近から声がかかる。
「例の炭鉱開発の開山セレモニーの件で、井伊直政殿から書状です」
分厚い封書が渡される。
「金吾さんも来るみたいですよ」
「おっと!」
向こうから来てくれるのはありがたい。
結局、佐和山炭鉱は東軍との共同開発ということに落ち着いた。
出資金も投入する人員も大凡半分である。
炭鉱で働く人員、従事させる人員のため、鉱山の近くに東軍独自の宿舎を作ることにもなった。
長束正家はこの東軍の駐屯地が植民地支配の第一歩になるのではないかとすぐさま反対した。
その後の話合いで、徹底した入室管理と武器の所持を認めないことで合意。
内外に友好を示すため開山セレモニーが行われることとなった。
外交担当の河尻秀長を中心に安国寺恵瓊にも動いてもらっている。
そして、木下木兵衛こと増田長盛にも。
彼らは東軍の来賓を迎える準備のため大忙しである。
「内府は来ないんですね」
「お忍びでくるかもよ」
家康の若武者姿を思い出す。
あの姿で隊列に加われば、こちらの者たちは誰も家康に気が付かないだろう。
「伊奈図書さんが来れるといいですけどね」
セレモニーは来月三月の初旬予定である。
順調に行けば伊奈図書の謹慎は解ける頃合いである。
「どうかな?」
流石に図書も西軍に関わるのは懲りただろう。
「左近、例のリストは滞りないか?」
「はい」
喜重郎がピックアップした間諜の疑いのある14名にはそれぞれ見張りを付けている。
秘密警察のようで気分は良くないが、東軍の諸侯がこちら側に来るタイミングで接触を図る可能性が高い。
そこで決定的な証拠を掴みたい。
「治部!」
振り返ると赤い花束を持っている宇喜多秀家である。
「わぁ! 綺麗ですね!」
左近が言った。
「初殿、と言ったか。今から会いに行きたいのだが」
秀家はキリッとした表情をキメて落ちてきた前髪を直した。
そうだった。
次に女が来たら宇喜多秀家に娶せると三成は約束したのを思い出した。
「も、もちろん! 行きましょう! 中納言様!」




