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第59話 望みなどない!

 佐久川喜重郎が舟でこちら岸へ渡って来る。


  黒田長政は横目ですぐ隣にいる小早川秀秋を見た。


 とにかく朝から童のように嬉しそうにはしゃいでいる。


「おーい!」


 秀秋は喜重郎に向かって大はしゃぎで手を振る。


「わざわざ、待っていてくださったのですか? 金吾様!」


 喜重郎はつぶらな目を瞬かせた。


 本心を曝け出すことのないよう教育された忍びがあまり見せることのない純粋な驚きの表情だ。


 小早川秀秋の元に島左近の息子・信吉から報せが入った。


 最近では郵便事情は発展して、簡単な手紙なら区間ごとに飛脚が走り、検閲が入ったとしても翌日もしくは翌々日には届く形となった。


 信吉からの手紙は喜重郎を罰することはせず、早々に東軍に送り返すという内容だった。


 西軍の思惑としてはこちらで生かしておいても人質の要件も満たさないないだろうし、素直に話せば雇い主の元へ帰れるというアピールにもなる。


 秀秋は黒田長政に声をかけて、揖斐川の岸で喜重郎を出迎えている。


「ご苦労だったな」


 喜重郎は長政の声にはそれほど反応せず、岸に着くと、秀秋の元に駆け寄ろうとすぐさま舟を降りようとする。


 秀秋は手で制した。


「喜重郎、そこを動くな」


 秀秋の柔らかそうな頬にエクボができる。


「そのまま、そこにおれ」


 秀秋が己が迎えに行くとばかりに、喜重郎の元へ悠然と歩いていった。


 喜重郎は戸惑いながらも、言われるがまま舟の上で主君を待っている。


 喜重郎には、茶々のことも佐和山方面の鉱山のことも事情を掴み主君に報告した功がある。


 情報こそが武器になるこの世界にとって喜重郎の働きは武芸よりもなお重宝されるものだ。


 長政は内心、忠義心に溢れた喜重郎のような家臣を持った秀秋が羨ましい。


「金吾様、お迎えいただけるなんて身に余る光栄です」


「うむ」


 秀秋は微笑みを称えたまま頷いた。


 軽い身のこなしで舟に飛び乗り、喜重郎に寄り添うとそっと喜重郎の胸に手を置く。


「お前は……もう少し西軍におれ」


「……は?」


 秀秋は喜重郎の身体を少し押した。


「お前は西軍におれ」


「な、なぜです?」


「なぜって……お前は西軍だろ?」


 喜重郎の顔が青ざめた。


「違います」


「……」


 秀秋は黙って喜重郎の身体を押す。


「金吾! 何している?」


 不審に気づいて慌てて長政が二人の元に駆け寄る。


「お前は西軍だ。西軍として死んでいくのだ」


 長政は見た。


 喜重郎の心臓のあたりがみるみるうちに赤く染まっていく。


 小早川秀秋は短刀をそのはだけた白いかいなで突き刺している。


「な、なにを!?」


 喜重郎は舟の上に崩れ落ちた。


 秀秋は舟を飛び降り、舟の先端を向こう側へ思いっきり蹴飛ばした。


「な……なんだって……可哀想ではないか! 金吾!?」


 長政は叫んだ。


 舟はサラサラと下流に流れていく。


「酷いではないか! どうして、どうしてこんなこと!? 上様に報告させてもらうぞ!」


 舟を引き寄せようにも、一昨日の雨で増水した川の流れが早い。


 あっという間に向こう岸の下流へ押し流されてしまった。


 長政はキッと秀秋を睨む。


「酷いではないか……!」


「……おぬし、昔から気に入らなかった」


 秀秋は醒めた目をして、長政を見つめる。


「おぬしは控えめに言っても、すこぶる滑稽だ。今日はそれが言いたくてわざわざ呼んだのだ」


 頬にはエクボ。


 微笑みをたたえて優雅にさえ見える。


「己は頭が良いと思っているであろう。そのさかしら顔、見るたびに反吐が出そうになる。

 己が一等上等な頭を持っていると勘違いしておる。おぬし、どこぞの誰かに似ておるぞ」


 秀秋は短刀の血を振って懐紙で刃を拭う。


「ま、せいぜいおぬしも優秀な間諜スパイでも抱えるのだな」


 長政は秀秋の後ろ姿に話しかけた。


「なぜ……?」


「なぜ? じきに分かる」


 秀秋は振り向きもせず、河川敷を後にした。



  ◇



 大垣城の執務室で、三成は村田新左衛門を困らせている。


 いや、困らせようとして困らせているわけではない。


 村田は難しい顔で三成が淹れた茶を見つめている。


「俺の茶、不味いか?」


「いえ! 滅相もございません。むしろ美味しゅうございます」


 村田は慌てて頭振った。


 朝から呼び出され何の用事を申し付けられるのかと思えば、茶を出され開口一番「欲しいものは無いか?」である。


「欲しいもの……」


 欲しいものは何もない。


「うーん」


「何か、褒美を取らせたいんだよね! 間諜スパイを捕まえたのは新左衛門の功績なのだし。


 何かないの? ほら好きなものとか、趣味とか」


 これと言って趣味もない。


 強いて言うなら、昔は無線機などを弄るのが好きだったような……。


 よく覚えてはいない。


「同人誌は? 薄い本とか?」


「要りません」

 村田はそこはハッキリ断る。


「褒美と言っても、両親が生きていたら……喜んでいただいていたかもしれませんが、今いただいても、誰も喜んではくれませんから」


 村田は少し複雑な気持ちになる。


 両親が生きていたら、真っ先に銭をもらって二人に全て差し出しただろう。


 二人はきっと口々に親孝行だと親戚に触れ回って周囲の人々の不興を買うに違いない。


 想像して知らない内に口元に笑みが溢れる。


 三成はその様子を見つめた。


「分かった。お前が褒美をもらって喜ぶ者ができたら……お前を大事に思う者ができたら、その時に褒美を取らそう。

 貰い忘れるんじゃないぞ」


 三成は数枚の紙を取り出した。


 出来たばかりの茶々の描かれた紙幣である。


「それまで、まずはこれを収めてくれ」


「治部様! いただけません」


 茶々が卑弥呼の扮装をしている。

 上質な紙に美しい印刷である。


「もらってくれ……実はな、お前があまりにも気が利くので、内府の間諜スパイだと疑ったこともあったのだ」


「え?!」


 村田は驚いて三成を見る。


 三成は人を食ったような笑いを浮かべている。


「疑って、すまなかったな」


「いえ……驚きはしましたが」


「新左衛門。俺はお前が褒美を取ることが嬉しい。お前の両親の代わりはできないが、俺はお前が活躍するのが何だか嬉しいのだ」


 三成は少しウェーブした髪を触りながら、珍しく照れくさそうに話す。


「お前が誰かに褒められて、褒美をもらえるのだったら頗る嬉しい。まるで……重家を見てるようでな。重家の方がちと年若だが」


 三成の長男・重家は大坂城内に小姓として残っている。


「もったいのうございます」


 村田はただただ恐縮した。


「そんなことは無い。これからも励んでもらわねばならないのだから」


 三成は村田の目を真っすぐ見つめた。


「頑張れよ」


 三成が去った執務室で村田はしばらく動かなかった。


 村田の心の奥底に三成の「頑張れ」という声がこだました。


 頑張る……一体何のために?


 己は一体何のために生きているのか。


 村田は震える心で、冷めた茶を飲み干した。

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