第49話 どうにもならない!
「ナオくん、おかえり」
玄関のドアを乱暴に開けて、すぐさま階段を登ろうとするとリビングからお父さんが顔を出した。
「塾だったの?」
料理していたのか、お父さんのメガネは曇っている。
エプロンで手を拭きながら言った。
「ううん、バイト……」
「ご飯は?」
「いらない。食べてきた」
リビングには麻婆豆腐の匂い。
テレビからはガチャガチャとバラエティ番組の音がしている。
玄関の棚には青い封筒が置いてある。
『伊吹山総合病院』
青い文字で書かれたA4サイズの封筒をチラリと横目で見ながら僕は階段を登った。
僕は急いで部屋に入って、バタンとドアを閉める。
シャツとズボンを着替えてすぐさま布団に入ると、コンコンというノック音が聞こえた。
「ナオくん、大丈夫?」
「……」
お父さんが布団にくるまった僕の背中に声をかける。
お父さんはベッドの脇に座り、僕の肩辺りをポンポンと撫でた。
「勉強大変だったら、浪人してもいいくらいなんだし」
優しい大きな手が肩をポンポンする。
「バイトもほどほどにして、少し休まないと」
「うるさいなぁ! ほっといてよ!」
布団を被ったまま僕は言った。
「……」
「……眠いから、出てって」
僕は布団をギュッと握りしめたまま言った。
「お母さん、今日、ナオくんに会えるって凄く楽しみに待ってたんだよ」
「……」
「面会に来られないほど、バイトが忙しいの? 勉強が大変なの?」
「……」
「お母さん、凄く落ち込んでて、お父さん、見てられなかったよ」
僕は布団の中で深く息をした。
胸が苦しい。
「別に、僕のことなんて待ってないでしょ……」
「なんで?」
「お母さんは別に……僕に会いたいとかないと思うし」
お父さんはポンポンの手を止めて、僕の肩に手を置く。
「お母さんはナオくんのことで頭がいっぱいだよ」
「じゃあ!」
僕はお父さんの手ごと布団を剥ぐ。
「じゃあ、何ですぐに病院に行かなかったの?
あんなに僕らを放っておいて、挙げ句に体調が悪いのに病院にも行かなくて! 出張ばっかり! お父さんも僕も残して! なんで?」
目からは涙が溢れた。
シャツの裾で拭う。
「なんで? 僕はもうすぐ受験生なのに……成績だって下がって……こんな、みんなは今、勉強に集中できてどんどん差がついてきてて……全部お母さんのせいじゃない!? お母さんが」
――お母さんが早く病院に行ってくれたら。
戦場となった地から連れ去られた子どもたちの帰還業務に携わっていたお母さん。
寝ずにパソコンに向かってろくに僕に話しかけなかったお母さん。
深刻な顔で誰かと携帯で話していたお母さん。
「僕のことなんて、興味なかったじゃない……他の子どものことばっかりで」
本当はこんなこと、言いたかったわけじゃない。
口をついて出た言葉に舌打ちしたくなる。
僕は本当はお母さんの仕事を心から誇っている。
僕はお母さんが誰よりも愛情深くて、正義感が強くて――僕を愛していることを知っている。
僕は優しくて強いお母さんが誇らしい。
でも――こんなヒドイこと言わないと、僕は僕自身を壊してしまいそうだった。
「挙げ句の果てに、自分の身体を犠牲にして……やってられないよ……」
僕が号泣すると、お父さんは何も言わず優しく僕の背中を撫でた。
お父さんだって辛いはずなのに、僕はお父さんが落ち込んだり、泣いたりする姿を見たことはなかった。
いつも淡々と家事をして、仕事に行って、僕のために早く帰ってきて慣れない料理をしてくれた。
はじめは、全然料理上手じゃなかったのに。
「ナオくんのことは一番。お父さんもお母さんもナオくんが大事だよ」
「ほっといてよ!」
僕は叫んだ。
「ほっといて! もう僕をほっといて!」
頭から布団を被る。
どうしてこうも僕はダメなヤツなんだろう。
もう高校生なのに。
立派な大人にならなきゃいけないのに。
これじゃまるで小学生だ。
春には大学のオープンキャンパスに行くはずだった。
半年前の模擬試験はA判定と悪くてもB判定。ところが今回はC判定とD判定が並んだ。
どうしても行きたい大学だったから。
どうしても勉強したい学科だったから、焦った。
焦って、焦って。
でもお母さんの病状のことが頭から離れなくて。
携帯でいつも検索して。
絶望して。
希望を持って。絶望して。
塾の他の子たちは楽しそうに勉強に打ち込んでた。
将来を希望で塗り固めてた。
なのに――僕だけどうして?
「来週は絶対にお母さんに会いに行こう」
お父さんは僕の手を握った。
「お母さん、待ってるって。ナオくんの顔見たいって。だから……一緒に行こうね」
僕は頷かなかった。
ただ無言で心の中で、部屋を出ていくお父さんに詫びた。
本当は周りに優しくしたかった。
学校の友達にも、塾の友達にも笑顔で話しかけたかった。
お父さんにも、お母さんにも。
「僕だって、本当はちゃんとしたいのに」
どうにもならない心を抱えたまま、僕は布団に再び潜った。




