第33話 勝てるかもしれない!
大垣城下には貞慶寺の除夜の鐘が鳴り、新年を祝う声が響いた。
暦は大方の人間が慣れ親しんでいるグレゴリオ暦。
関ヶ原初日の日付を元にカレンダーを作った。
因みに東軍も、グレゴリオ暦を採用している。
新年早々、二の丸で鍛錬に余念がないのは大谷隊・平塚隊である。
大谷家長男・吉治を中心に試合形式の手合わせから、走り込み、筋トレ、ストレッチ、鍛錬後には武具の手入れまで、二の丸の中庭は冷たい空気をものともせず男たちの一気呵成の掛け声が響いていた。
石田家の面々も、もちろん鍛錬には励んでいる。
蒲生郷舎や舞兵庫などの強者を中心に、特に鉄砲隊の鍛錬に力を入れている。
「殿! こりゃ、ひょっとすると勝てるかもしれませんよ!」
みなの様子を満足気に見ながら、左近が嬉しそうに話す。
三成は嬉しいのは、嬉しいが。
「あれ? 殿は浮かないお顔ですね」
「いやぁ……嬉しいのだが、ちと複雑でな」
やはり、みなの心を動かすのは『理念』とか『理想』みたいなものじゃなく、もっと切実なもの――言うなれば、やはり『感情』なのである。
茶々の存在がみなを鼓舞し、みなにこのような行動を起こさせている。
「要するに殿は茶々様に嫉妬されてると?」
「そ、そういうわけではないのだが……人を動かすのは単に難しいなと思って」
「あ! 茶々様!」
鍛錬中の兵士がひとり声を上げる。
茶々が中庭に面した障子を開け、手を振る。
息の上がった者でも、振り返りみな茶々の姿を見上げて敬礼をする。
茶々は三成に気が付いてチラリとこちらを見た。
茶々の側近たちが障子を閉めると、兵士たちは各々微笑み合い、また鍛錬に戻る。
「なんとも麗しい光景ですなぁ〜」
左近が腕を組んで、満足気に頷く。
三成は茶々の何とも言えない複雑な視線の意味を考えていた。
執務室前に村田新左衛門が既に控えている。
「明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとう。今日も早いね」
廊下は寒く、村田の吐く息も少し白い。
執務室は既に火鉢に火が入っていて暖まっている。
「悪いね」
「どういたしまして。あの……既に新年のご使者がお見えになっています」
「新年の使者……?」
大広間には使者のための椅子と三成専用の椅子、側に火鉢が一つ。
使者は、椅子には座らずに屈んで赤くなった手指を火にかざしている。
伊奈図書である。
「お一人ですか?!」
三成は思わず年始の挨拶もせずに声をかける。
「あ、治部様。明けましておめでとうございます。ええ。本日は単騎で参りました」
熱いお茶をさも大事そうに丁寧に飲む。
伊奈図書の色白の顔に少し赤みが差した。
戦国武将とは思えないほど、細い身体に猫背。
現代で言えば文学者か町医者のような風情である。
「こちら、上様から新年のご挨拶と……茶々様の身柄引き受けに際しての取り決めが認められております。ご査収ください」
過日の文書より、数倍大きな桐箱に入っている。
受け取りながら、三成は図書の顔を見た。
「お顔に似合わず大胆なお人だ」
「はい?」
「怖くなかったですか?」
図書は控えめに笑った。
「フフ。怖くは無いが、新年早々から城内の方々が鍛錬に精をお出しのご様子……大変に興味深く観察しておりました」
伊奈昭綱・通称「図書」は徳川家康に父の代から仕えた家臣である。
関ヶ原後は福島家の家老・佐久間嘉右衛門が関所の通過の件で図書の家臣と揉めて腹を切ったことで、福島からの苛烈な責により、図書は切腹に追い込まれている。
家康から上杉への「問答使」、島津への「取次」など三成の行っていた仕事の内容と被るところがある。
「この場で検めてもよろしいですか?」
「構いません」
家康からの書状は、通り一遍の新年の挨拶と、茶々の引き渡しの時期、その処遇についてが明解に記されていた。
「井伊直政への、降嫁……ということですか? 内府にではなく?」
「ええ。敢えて言葉を選ばずに言わせていただければ、《《我が主》》は、そのような無茶はしない……とでも申しましょうか」
図書は、敵方の姫を無理矢理に自分の物としないと言っている。
かつての秀吉、つまり暗に三成の元主を批判しているのである。
「ふん……どうだか。無類の後家好きだと聞くが」
家康が側室に持ちたがる女はみな出産経験のある後家である。
女の趣味までも家康の行き過ぎた合理主義的なところが垣間見えて三成は気に入らない。
「この和議が叶えば、おそらく両軍永らく平和に暮らせるかと……治部様、ここが決断のしどころですぞ」
図書が手を三成の膝に掛けんばかりに近寄る。
「この城内の雰囲気を見たでしょう? こんな条件飲んだら真っ先に俺が殺されますよ」
三成は鍛錬の声の上がる中庭に目を遣る。
「それに……俺も茶々様をそちらにお渡しする気持ちは微塵もありません」
「我が主は、茶々様に悪いようにはいたしません。そこはこの伊奈昭綱、命に代えてでも保証いたします」
三成の頭に思わず血が昇る。
「その貴方の主が、大坂の折、彼女に何をしたのか忘れたとは言わせませんよ!」
「確かに……確かにそうです。弁解の仕様がありません」
図書は深々と頭を下げる。
図書の死後に起きた話である。
「貴方の命を勝手に懸けられたところで、納得なんていきませんよ」
「しかしながら井伊直政はあのように見目も良く、武勇に優れ、頭も良い。
茶々様に女性としての幸せを与えられる男です。
こちらに居ては、こう言っては何ですが、女性としての幸せは掴めないのでは……?」
図書の必死の形相に、三成は耳を貸さずにはいられない。
「西軍の誰かの物になれば、やっかみが生じてどのようになるか分からないのでは?
それとも治部様自らが幸せにして差し上げるおつもりですか?」
「な、な、なん……別に! そんなつもりは」
「それでしたら尚の事。井伊直政でしたら、茶々様とは過去の因縁も浅く、末永く幸せにお過ごしいただけるのでは。
そしてお子が出来た暁には、この世界に新しい命が誕生するわけで」
図書は真剣な目で、三成に訴えかける。
「世界は滅びることなく、続いていくことが出来るのです」
「……」
「くれぐれもご一考を」
回答期限は十五日後である。
ロバの様な小さな馬に跨って伊奈図書は帰って行った。
三成は馬に揺られる図書の背中をしばし見つめた。
牧歌的な風景のはずがやけに寒々しく感じる。
茶々の幸せだと? 図書ごときに何が分かる――という思いと共に、図書の言葉に揺さぶられる己の心が苦しい。
其の実、あの男は物事の本質を能く捉えているのだ。
「お! 治部さんじゃない?」
三の丸の大門に火縄銃を肩にかけた岩佐又兵衛が通りかかった。
「お前、それどうしたのだ?」
「いやいや、東軍のヤツらが茶々様を奪いにこようとしたらいつでもぶっ放せるようにね!
戦国大名・荒木村重の血が騒ぐっていうか。腕が鳴りますよぉ」
又兵衛は父親の名を出して、火縄銃を構えて撃つマネをする。
「絵筆は?」
「はい?」
又兵衛はキョトンとした顔をする。
「絵筆は持っておらんのか? おぬしと言ったら絵筆であろう?」
「あぁー、ま。あの世でいくらでも描けるからね! 天国にゃ上等な紙もたくさんあるだろうし!」
三成は弾かれたように又兵衛を見た。
思わず又兵衛の背中に声を掛ける。
「又兵衛! 死ぬなよ!」
「ただじゃあ死にませんよ! 治部さんもね!」
又兵衛は屈託のない笑顔を浮かべて軽く手を挙げた。




