第206話 好機でしかない!
揖斐川の向こう岸……砂埃に巻かれて、負傷兵のテントが張られている。
御殿医姿の板坂卜斎と数名の看護士が、うめき声の中を走り回っている。
卜斎はいかにも医学部の学生、といった風貌の白い顔に大粒の汗を浮かべて怪我をした兵士たちの応急処置に当たっていた。
両手を真っ赤に染めている。
休む間もなく、もう夕刻である。
瀬名姫は長い黒髪を靡かせながら、その様子を見て呆然と立ち尽くす。
砂を踏む足音に、ハッと振り返った。
日に焼けた顔の口元に緩い笑みを浮かべて男が立っている。
「随分、余裕なんだな。この状況が計画通りだったと言うのではあるまいな?」
瀬名は田中吉政の酷薄に映る態度が気に食わない。
思わず皮肉が口を衝いて出た。
「計画通り……だったとは申せませぬが、そう悲観することは無いかと」
吉政の言葉に瀬名は美しい眉根を上げた。
「ほう……」
瀬名は吉政の顔をしげしげと観察した。
色黒の精悍な顔立ちをしている。
と、同時に得体のしれない何かが潜んでいるような目の色だ。
この男のことを、瀬名はほとんど知らない。
「確かに瀬名姫様。目指した第一の砦には辿り着けなかった。その代わり、わが兵士らに『憎しみ』を植え付けることはできた」
「……憎しみ?」
「そう。憎しみこそが、われらの兵士たちの原動力です」
田中吉政の目は楽しそうに細くなる。
「今、確かにわれらは一度は引いた。 だが……われらの兵士は肩を落とし項垂れてますか? 負け犬みたいに顔を背けて伏せっていますか? 否、彼らは憤っている」
吉政は歯をむき出しにして笑った。
兵士たちにとって……。
今回の戦で、西軍に無惨にも殺されたのは同じ家中の仲間であり、ともすれば家族であり、手に手を取り合って関ヶ原に飛ばされて以降苦楽を共にした……かけがえの無い者たちである。
「憎しみさえ持続できればまた彼らは牙を剥く。第二第三の攻撃がデキる。 その時こそ好機。西軍の連中にトドメを刺す時です!
幾許かの兵士の犠牲は折り込み済みです。嘆くのはまだ早いのです」
瀬名は吉政を蔑んだ目線で見遣る。
「貴様も所詮、権力者なのだな……」
瀬名が憎むのは――権力者である。
たとえば徳川家康のような。
「私が権力者? 滅相もない」
吉政は戯けた表情で首を振る。
「貴女の……この世界に『権力者は要らない』という考えには賛同しておりますよ」
瀬名はこの場所で新しい社会の仕組みを創りたいという目標がある。
そのためにまずは、権力者を排除せねばならない。
「私はリーダーの自覚はあります。それが権力というならそうなのかもしれません」
吉政は肩をすくめた。
「それでも、瀬名姫様。 革命を起こすには多少の犠牲は必要です。
過去、血を流さなかった革命がございましょうか?
目覚めた民衆が立ち上がるには犠牲が伴うものです」
「……要らぬ犠牲もある」
瀬名は視線を落とした。
「でも狼煙は上がらなかったではないですか?」
吉政が早口でズバリと言った。
瀬名が取り付けたという明石全登の寝返りは起きなかった。
戦略通りにいかなかったのは、瀬名も同じで単純に吉政らだけを責めることはできない。
瀬名は唇を引き結んで吉政を睨見つける。
風に乗って、二人の背後からは兵士のうめき声が聞こえてくる。
思わず耳を塞ぎたくなって、瀬名はそれらの声を振り切るようにして言った。
「捕虜交換の件だが、少し待て。筑後(吉政)」
◇
瀬名が従者の田所のみを伴って訪れた先は黒田長政の牢である。
日が当たらない空間に押し込められた長政は床にへたり込んでいて、胡乱げに青白い顔を瀬名に向けた。
足腰がひどく痛むようだが……藪睨みの目の奥にまだ光が宿っている。
瀬名姫は格子に手をかけながらこれまでの経緯を話した。
大敗を喫したことは話さなかったが。
「今、大谷刑部からの使者が参ってな。 西軍はそなたを戻して欲しいそうだ。数名の捕虜と引き換えに」
大谷刑部が言ってきた捕虜の数は数名ではなく、正確には72名である。
はじめの物見からの報告では、死者は250名ほどにのぼっていた。
が、その後西軍の懸命な医療処置で息を吹き返した者が60名ほどいた。
この世界では即死以外は生命が留まっていれば回復が早い。
応急処置が有効な証左である。
これら負傷兵と西軍領内で逃げ遅れた者と併せて、全て西軍側の捕虜となっているのだ。
「私を戻してくださるのですか?」
「当然、戻さない」
長政の希望はすぐさま瀬名に打ち砕かれる。
「西軍の奴らが大事にしてるのは、国際人道法だろう?
捕虜を虐待したり殺したら違反だ。すぐに返してもらう必要はない」
ジュネーブ条約に基づく国際人道法(1949年)は、西軍が拠り所とする指標のひとつである。
バカ丁寧に扱って、捕虜の衣食住に少なくないリソースを割くことになるだろう。
「こちらも国際法に則って……丁寧に扱ってもらいたいものですがね」
洞窟に作られた牢は、ジメジメしていて過ごしやすい住環境とは言えない。
「捕虜たちは西軍に寝返るかもしれませんよ?」
長政の言葉に一瞬、瀬名姫はキョトンとした表情を浮かべる。
「妾に付いてきてくれた連中だ。妾との絆は深いのだ」
「うーん……」
「何?」
思っていたより世間知らず。
小首を傾げる姿は無垢で純真な娘のようにも見える。
長政は頭振った。
いやいや……これが作戦だとしたら、怖い女だな、と長政は苦笑する。
長政はようやく身を起こして、尻についた埃を丁寧に叩く。
「やっぱり私の言っていたことが正しかったでしょう?」
長政は格子を両手で掴んだ。
長政は今回の瀬名姫軍の仕掛けは「大敗」と予想した。
瀬名の表情を見れば、それは間違っていないはずだ。
「貴女、このままいったら破滅だ! これは好機ですよ。私を西軍との交渉に使うんです!
田中や山内……奴らの言うがままに貴女の身を預けてはなりません!」
◇
「これぞ好機ですね~」
浅野幸長がニヤつきながら、古田織部の肩に飛びついた。
場所は清洲城下。
古田織部邸の茶室である。
「気安く触るんじゃないよ! ワシはお師匠様ですよ!」
織部は言葉とは裏はらに、ニコニコと相好を崩す。
『新党立ち上げ』の準備は着々と進んでいる。
これまで、曖昧な態度を崩さなかった蜂須賀家や、加藤、寺沢、筒井、京極などの手持ちの軍勢が二千を超えるところも……秋波を送れば存分に含みをもたせた返答が返ってくる。
そもそも、彼らは瀬名姫の甘言に拐かされて瀬名姫の軍勢に少なくない数の家臣を持っていかれているのだ。
各家、焦りからか織部の『第三勢力結集』へは前向きな返答である。
蜂須賀家は、長らく黒田家と折り合いが悪く……(黒田長政が蜂須賀家から来た奥方と離縁して家康の養女を正妻に据え置いたことが原因ではあるが)……今まで息を潜めていたが、黒田家の崩壊を見て、ようやく動き出した。
なにしろ豊臣恩顧の大名のうちで、そもそも蜂須賀家や加藤(嘉明)家は無視できないほどの大所帯である。
これらをどこの陣営が引きずり込めるかで、盤上の趨勢が変わってくる。
そして仕掛人である旗頭は、関ヶ原当時、まだ大名でも無かった古田織部。
織部にとって、この事態は面白くないわけがない。
「新党のシンボルマークを考えた」
織部は茶室にサッと大判の紙を広げる。
白地に小豆色の丸、その中に同じ色で扇が画かれている。
しかし、その扇は、風に揺られたように歪んでいる。
「宗匠(古田家)の家紋ですね」
丸に扇。
家紋の扇は正面だが……画に描かれたのは左下から風に煽られて、今にも舞い上がりそうな扇である。
「人間はみな歪だ」
関ヶ原に飛ばされてから右往左往の毎日。
石田三成のように大小の問題を真っ正面から正当なやり方で取り組むのも、まぁいいだろう。
でも、その正義感が織部にはやや青臭く感じる。
「我らを風見鶏だと言って嘲る風潮がある。だが、この地球上に風が止んだらどうだ?」
人間は狡くて、歪で、愚かだ。
だが、それを愛さなければ。
愛せずとも存在を赦さなければ。
その人間らしさを。
そうでなければ天下人は務まらない。
織部なりの哲学である。
「驕れるものは久しからず……肩肘張って生きて、どうする?」
シンボルマークの旗は大いに揺れるだろう。
その中で織部の扇も気持ちも大いに揺れる。舞でも踊るかのように。
「で、この好機を逃す手はないっしょ?」
幸長がいたずらっ子のような口調で織部を煽る。
「まだまだだ……」
織部は愉快すぎて、思わず吹き出してしまう。
「まだ両者、どんどん潰しあってもらうぞ! グヘヘヘへ」
もうちょっと西軍と瀬名姫軍で削りあってもらって、しっかりと漁夫の利を得たい。
(天下人か……まぁ、ワシには下天くらいが丁度良い)
織部は腕を組んで中庭の小さな空にモクモクと浮かぶ入道雲を見つめた。




