第204話 戦場に架ける橋はない!③
誰かが自分の手を握っている。
柔らかく小さく熱を持ったそれは……母だろうか。それとも……。
明石全登はゆっくりと目を開いた。
ぼんやりとした視界がまず捉えたのは、天井の木の文様だった。
何か宇宙の――まるで土星の環のようにも見える。
傍らの女性と目が合った。
「……お袋様」
「掃部」
茶々の大きな瞳が哀しげに全登を見つめ返している。
大坂の折……総大将・秀頼の母だから全登も茶々を自然と『お袋様』と呼ぶ。
「……うッ!」
全登が何とか身を起こそうとすると、胸に激痛が走った。
「動かないで! 胸を撃たれているのです」
虫の息であったところを味方に背負われてこの救護病棟に運ばれて来たのは既に一昨日のことだという。
すぐに曲直瀬玄朔の弾丸摘出手術を受けて、今はこうして他の兵士たちとベッドを並べている。
「しばらく安静にしていなければ、ダメよ」
「……」
動きやすいように、茶々の服装は簡素だ。
小姓姿でもなく、グレーがかった麻のシャツとパンツスタイルである。
髪は高い位置で結ばれている。
さぞかし彼女は注目の的だろう、と全登が隣のベッドに目を移すと、男が冷や汗をかきながら目を固く閉じて唸っている。
ちょうど他のベッドも似たようなものだから……茶々の存在にさほど注目するものはいない。
「申し訳ございません……お袋様」
「どうして? どうして掃部が謝るの?」
茶々は大きく目を見開いた。
全登は、この真っ直ぐな視線が些か苦手で、すぐ目を伏せてしまう癖がある。
「貴女を……救いたかった」
「……わかっています」
茶々は頷いた。
左手を握る指に力がこもる。
その後、彼女はゆっくりと慎重に言葉を紡ぐ。
「掃部……もし、これから私が何か……貴方が……間違っている、と。貴方が間違っているのでは、と思うようなことを私がしてしまったとしても……私を責めないで欲しいの」
「……」
「私なりに考えて……深く考えて決めたことなの。だから、貴方に責められるのは辛い」
責めたことは無い。
全登は驚いた。
ただ茶々の方も、もしかしたら自分の何か物を言いたげな視線を怖がっていたのかもしれない。
非難めいた視線、と感じていたのかもしれない。
「責めません!! もしや、お命を! お捨てになるおつもりで?!」
全登は痛みを忘れて茶々の手に縋り付く。
「いえ……それは、絶対にしません。安心して」
茶々はキリシタンでは無いが……自ら生命を絶つことだけはしないと心に決めていた。
母・市に……何としてでも生きてもらいたかったから。
茶々は遺された者の悼みを誰よりも知っていた。
夫の治や息子の直希、それに大谷刑部が茶々の身を心配してくれているのは分かっている。
現に彼らは茶々が一人にならないように心を砕いている。
大谷は次男の頼継を影のように茶々に付きまとわせている。
だから、この病棟へと彼らをまいてくるのには少々、苦労した。
茶々の決意が固まった今、自ら生命を絶つことは頭の片隅にも無い。
だから。
「心配しないで」
全登はあまりの痛みに眉を顰めて、大きく息を吐いた。
枕に頭を預ける。
茶々が何をしようとしているのか……今の彼には皆目見当がつかない。
天井に視線を泳がせた。
「貴女の言葉はまるで謎謎ですな」
「直に答えはわかるわ」
茶々はもう消え入りそうなくらいの声で応える。
ガヤガヤと賑やかな男たちの笑い声と喝采、拍手の音が廊下に響いた。
先勝を祝って……兵士たちが傷痍兵の見舞いに訪れたのだろう。
「掃部、これ。痛み止め。中身はアヘンの成分みたいだけど」
茶々は薬商人の出であった小西行長から譲り受け、その薬に「ストルゲ」という名前を付けた。
依存症にならないように適切に処方すれば強い鎮痛効果が期待できる。
「いえ……大丈夫。他の患者に回してください」
希少なものだろう。全登は断った。
「ロキ◯ニンも……あるけど?」
茶々はチラッと全登の顔を伺う。
こちらは以前、『時空のヒビ』を通じて長宗我部盛親に貰ったものである。
「そ、それはください」
全登は笑いながら、冷や汗を手で拭った。
◇
茶々が病棟の廊下に出ると、ひときわ背の高い男が目に入った。
先ほどの兵士たちからの賑やかな喝采は大谷刑部に向けられたものだったのか。
大谷刑部は他の兵士たちのような、あからさまな喜色を浮かべていなかったものの、頬には柔らかな笑みを浮かべている。
ひとまず作戦が上手くいったことへの安堵があるのだろう。
廊下の奥から茶々の姿を認めると驚いたように素早く歩み寄った。
「どうしてここに?」
茶々は応えずに無言で微笑む。
大谷刑部は困ったように眉を下げて、茶々に微笑み返した。
「小西行長の嫡男・ルカが……伊吹山の洞窟に現れたそうです」
大谷は声を潜めて、茶々に小西ルカの件を報告した。
当初、西軍の死者は20名と報告されたがそのうち1名は搬送途中に息を吹き返したので、大坂城から飛ばされて来たのはルカを含む19名であった。
「……そう」
茶々は長い睫毛を伏せて、そっけなく応える。
大谷刑部の言いたいことは手に取るようにわかる。
大谷は秀頼が飛んでくる可能性が高いということを暗に示しているのだ。
――希望を棄てないように、と。
石田重家の後に、小西ルカである。
西軍首脳陣の家族。
とりわけ子どもが優先されて飛んでくる確率が高いことが判明した。
「そうね。西軍の誰かが命を落とせば私も会えるかもしれないわね。最愛の息子に」
茶々は唇を噛みしめる。
美しい口元が一瞬歪んで茶々の瞳から涙がこぼれそうになる。
「会いたい……でも、誰かの代わりに命を授かるくらいだったら……会いたくない!」
大谷は思わず茶々の細い肩を抱いた。
茶々の苦悩を目を背けずに見届けることしか、できることはない。
「いえ……会いたくない、なんて本当の気持ちではないわね。でも、私は会えない……すごく、会いたいけど……!」
茶々は突如大きく肩を震わせる。
「刑部……本当の私は、凄く……醜い!」
大谷の胸を、茶々の細い手が悔しそうに二、三度叩いた。
「秀頼を何度も呼ぼうとしたの。でも……呼べなかった。私の力では、あの子はここに来ることが……どうしても出来ないの!」
茶々はしゃくり上げて、泣いた。
「私は醜いの! 戦闘が続けば……もしかしたらあの子が来るんじゃないか、なんて。
誰かが死ねば、あの子があの洞窟に現れやしないかなんて……期待しそうで怖いの!! 私は、私は! そんな醜い心を持ってるのよ!!」
曲直瀬が横目で見ながら走って通り過ぎる。
急患が運ばれて来たのだろう。
茶々は顔を伏せて額を大谷の胸に付ける。
廊下は慌ただしく白衣を着た者たちが行き交い、暫し騒然とした。
大谷は広い肩で茶々の姿を覆い隠した。
茶々の涙は誰にも見せたくない。
今の苦しみに満ちた言葉は誰にも聞かれたくない。
大谷は清潔な布を取り出して慎重に茶々の目元を拭った。
しばらくそのまま……彼女の肩を引き寄せる。
「刑部……ごめんなさい。ありがとう」
茶々は落ち着きを取り戻して軽く息を吐いた。
大谷は真っ直ぐ茶々の瞳を見つめる。
「貴女は……それでも、美しい」
ストレートな言葉に茶々が白い歯を見せて笑う。大輪の花のような笑顔が眩しい。
「ごめん……刑部。甘えっぱなしね」
茶々は大谷の腕から静かに離れる。
二人の間には暫しの沈黙が流れ、茶々はバツが悪そうに話題を逸らした。
「そういえば……左近とか、新左衛門とか、しばらく姿が見えないわね」
「あーー、そうですね。アイツラはその……別班で」
「別班??」
茶々は鼻をすすりながら……頭を掻いて何かを誤魔化そうとしているような大谷の顔を見上げた。
大谷には茶々の瞳の奥が光ったように思えた。
しかし、大谷は……茶々に何も明かさないつもりである。
この時代の船旅は、無事に帰ってこられるという確証はない。
期待をさせて裏決る方がより茶々にとっては残酷だろうから。
だが、こんな時の茶々は妙に鋭い。
「別班って、何?」
大谷はタジタジになりながら、慌わててその場を離れるしかなかった。




