第202話 戦場に架ける橋はない!①
濃霧で向こう岸はおろか、数メートル先まで見えない。
ひんやりとした朝の清廉な空気が揖斐川の辺を覆っている。
「二度目だ」
宇喜多秀家の凛とした声が河川敷に響いた。
右手に采配を持った秀家は、長い睫毛の瞳を見開いて、取り囲む家臣団ひとりひとりに丁寧に視線を遣る。
「私たちは、二度目の戦争を迎えることとなつた」
秀家の涼やかな視線を向けられた兵士たちは、みな微動だにせず固唾を呑んで次の言葉を待った。
「私たちは絶え間なく……和平への努力を続け、今敵方となって対峙している者たちへも……困難な交渉を幾度となく繰り返した。
しかしながら……このような事態となってしまった」
関ヶ原で宇喜多隊は勇猛に闘ったのだ。
奮戦し斃れた者も多かった。
一度は救われた命。
もう一度、闘え……と命を下すのは、あまりにも残酷過ぎる。
「あまりにも、残酷な……あまりにも嘆かわしい選択を私たちは再びしなければならない。
すなわち、私たちの未来のためにそれが必要だからだ」
そう。この度もそうしなければならない。
「私たちは……彼らに、川向うにいる彼らに私たちの未来を預けることはできない」
秀家は采配を向こう遥か向こう岸に集結しているであろう兵たちに向けた。
振り返って、視線は愛おしげに傍らの兵士たちに送る。
本当はもう、一兵たりとも喪いたくない。
秀家は唇を噛みしめた。
「彼らが勝った先の未来はどうなる? 私たちが歩んできた歴史は? 文明社会は? 彼らが秩序を破壊し、欲望のまま私たちを力で捩じ伏せたとしても、その力は決して正義に姿を変えることはない。
向こう岸の彼らの主義主張が勝てばこの世界は再び暗闇へと堕ちる!」
力で奪えないものが……確かにあるはずだ。秀家は胸に左手を充てる。
「他の国の独立や主権を軍事力で脅かし、威嚇して……言うことを聞かせようとする! そんなものに正義など無い! 私たちは、それを阻止するために闘うのだ!」
秀家は胸に充てた左手を握り締めて突き上げる。
「ここから暗い日々が続くだろう。苦しい思いをするだろう。友の死に直面するだろう。
でも……でも、私たちは正義の御旗を打ち立てて抵抗せねばならない!」
秀家は目の前にいる兵士の顔を見た。
若く、キラキラとした瞳が真っ直ぐに秀家を見返している。
思わず秀家は目を伏せた。
「みなに……茶々様の祈りの加護があらんことを!」
秀家は小高い丘の中腹に構えた本陣に駆け戻った。
傍らには明石全登がピッタリと寄り添っている。
「掃部、我らはこの地が死に場所と心得よ」
「ええ……もちろん、殿」
寒くもないのに歯の根が合わない。
秀家は苦笑した。
「本当は一番怖がりなのだ。知っておろう?」
白地に島形児文字の馬印を持って、前線で立っているのは秀家自身ではなく、他の者でも良かった。
本当は影武者でも良かった。
秀家自ら志願した。 家臣団は命を賭してこの場に立つのだ。
己が何の言葉も伝えずに、隠れているわけにはいかない。
「家中もまとめられず……今回も生き延びられず。すまなかったな、掃部」
秀家は無理に笑った。
「器じゃないのだ。イケメンなだけで」
熊は閨でいつも秀家の面が良いと軽く頬を抓った。
あの優しい女をひとり、この世に置いていくのだけが、辛い。
「貴方様は強い。己の弱さを認められる男こそ……真に強いのですぞ。殿。貴方はお強い。
掃部は、今度こそ殿に最期までお付き合いいたしまするぞ」
霧は晴れた。
敵方の舟の形がゆっくりと浮かび上がる。
真新しい木材で出来上がった巨大な舟である。
敵方は既に、濃霧の中を舟で渡ってきていた。
舟は目視で四隻……小さなものから大きなものまで、すんなりと静かに岸へ辿り着く。
と、同時に雨のような矢がこちら岸に降ってきた。
宇喜多軍は盾を頭上でキッチリと絵文字を描くように掲げ、身体に矢が刺さるのを防ぐ。
バシャバシャと音を立てて舟を降りてきた敵兵と槍同士の小競り合いになる。
そして、数名の兵士がこちら側に逃げ戻った。
「掃部! 逃げよう!」 「は 逃げましょう! 殿!」
瞬く間に、戦場の阿鼻叫喚があちらこちらで発生した。
負傷した兵士を仲間の兵士が助けようと引き摺る。
負傷した兵士を庇うように盾を持った兵士が幾重にも連なる。
そこへ容赦なく槍先が突き刺さる。
「来るぞーー!」
誰かが叫んだ。
大波である。
上流の堰を切ったのである。
堰き止められていた水が一気に流れ、小舟は大きく傾いて転覆した。
敵方の兵士があっという間に流されていく。
「引くぞーーー!!」
秀家は声を張り上げた。
準備していた罠にかけるため、秀家は敵方に背中を向けて丘を駆け上がる。 そこへ火縄銃の一斉射撃が襲った。
足許に味方の兵がもんどり打って斃れる。
明石全登も秀家の背中を庇って撃たれる。
「掃部!!」
「お行きなさい!」
全登は真っ赤な血を吐いた。
「行きなさい! 早く!!」
秀家は丘を駆け上がり、頂上に登ると今度は一気に駆け下りた。
鉄砲隊を率いる安国寺恵瓊が、塹壕から頭を出して大きく手を振る。
「来るぞ!!」
秀家はそのままの勢いで塹壕に滑り込み、恵瓊の側で火縄銃を構えた。
恵瓊が叫ぶ。
「まだ撃つな! 十分引きつけてからだ!」
「分かってる」
心臓の音は静かだ。
いつの間にか歯の根がカタカタ言わなくなっている。
一秒、また一秒、と数えてみる。
味方が次々に逃げ帰って、塹壕に吸い込まれる。
朝の光が秀家の汗ばんだ額を真っ直ぐ照らした時、敵方の兵士が姿を現した。
ひとりふたり、あっという間に大勢の兵士たちがこちらに向かってくる。
黒い影が次々と現れて、こちら側へ迫ってくる。
丘を駆け登った彼らの目には……三百メートル程先に、宇喜多軍の仮の本隊が見えるはずだ。
大勢の足音が頭上に迫ってくる。
「今だ!! 撃てーーー!!!」
秀家は力の限り、叫んだ。
秀家は塹壕から銃口と頭だけを出し、狙いを定めて引き金を弾いた。




