第199話 記録がない!
藤堂高虎・増田長盛らとの話し合いを終えて……大垣城の執務室を出たところで大谷刑部を待ち構えていたのは、綺麗に揃えられた口髭の男。
明石全登であった。
「先ほど……ウチの殿から、刑部様から大将の命を受けたと話がありました」
ウチの殿こと、宇喜多秀家は会議を早々に抜けて全登と布陣に関する軍議を行なったという。
「命って言っても……俺で申し訳ない」
本来ならば中納言である秀家に命を下せる立場ではない。
中納言は従三位、刑部少輔は従五位下である。
「いいんです。刑部様が指揮を執るのは自然ですから」
内政は内閣総理大臣である増田長盛でも、ひとたび軍事作戦となれば、大谷の経験に軍配が上がる。
「……なぜ、私を信用なさったのですか?」
それだけ確認したくて、と全登は言った。
「信用してはいけなかったかな……?」
大谷は人懐こい目で全登の顔をマジマジと見つめた。
三成が消えてから一週間後、大谷は明石全登の蟄居謹慎を解いていた。
「ズルいですな」
全登は苦笑いを浮かべながら、懐から紙の束を大谷に渡す。
20通くらいの手紙の束である。
「みな、瀬名姫様からです」
瀬名姫傘下の忍びが謹慎中の全登の屋敷に忍び込み、何と天井裏から渡してきたという。
瀬名姫には、味方するという約定を取り交わしている。
「戦闘が始まって、一刻(2時間)ほど経った後に……寝返るように、と」
「中納言様(秀家)には?」
大谷の質問に全登は首を横に振った。
「寝返るつもりだった?」
「そのつもりでしたら、この手紙の束は既に燃やしてます」
全登は力強く頷いた。
全登は主君の宇喜多秀家とともに瀬名姫軍を迎え討つ構えである。
「死んでは、いけませんよ。掃部助」
無茶なことを頼んでいるのは分かっている。
敵方を引き込んだ後の数々の仕掛けを考えると大谷が今、前線に張り付いているわけにはいかない。
「ありがとう……なるべく、やってみますよ」
全登は大谷に向かってキッチリとした敬礼をして、その場を去っていった。
◇
コペンハーゲンの夜は、オモチャのように可愛らしい家々に灯りが灯されて、まるでおとぎ話の世界のように輝いている。
二人をホテルに案内したあと……長谷川吉彦は奥方を連れてきた。
安藤と真美子をディナーに誘うためである。
いかにも高級そうなレストランに足を踏み入れる。
コース料理が次々に運ばれてきた。
ベージュのスーツ姿の真美子は緊張であまり食事が喉を通らなかったらしく……控えめな笑みを浮かべて終始、周囲に気を遣っている。
一方、長谷川の奥方……長谷川エリカはわりと豪快なタイプであった。
イブニングドレスからはみ出しそうな胸元をたまに布を引き上げては直す。
運ばれてきたワインに酸味が強過ぎるだの、食事と合わないだのと日本語で文句を言っていたが、誰よりも多く赤ワインを口に流し込んでいる。
「あなた、話しちゃいなさいよ! はるばる日本から来てくれたのよ!」
長谷川のいかにもエリート然とした役人タイプの奥方にしてはエリカは意外なタイプだったが、安藤としてはその気安さに少し救われた。
当の長谷川といえば……頑なに杉山のことは何も話さない。
「話したいけど……私の立場では話せないのですよ」
長谷川は申し訳なさそうに、藪睨みの目を瞬かせる。
長谷川は赤ワインをちびちびと舌を湿らせる程度である。
エリカがトイレに行くため、ハンドバッグを片手に席を立った。
その瞬間、長谷川が安藤に顔をグイッと近づける。
「これだけは……はじめに、言っておかなければならないのは……」
長谷川は周囲に素早く目を遣る。
他に日本人らしき姿は見えない。
「彼、杉山光男は『職務放棄』と我々日本国に対する『反逆行為』で……内閣府の地位はおろか、彼の存在はおそらく……公式の記録ですら抹消されている、ということです」
安藤は信じられないという面持ちで片眉を上げた。
「抹消……ですか?」
長谷川は頷いた。
抹消、とは穏やかでない。
そして日本で……人ひとりの就業記録など、果たして簡単に抹消できるものなのだろうか……?
「だから……我々が杉山光男の名前を口にすることさえ……リスクがあることだと思っていただければ……これからのお互いの認識に齟齬が生じないかと」
エリカがストールを肩に掛けながら戻ってきた。
長谷川も何事も無かったかのように、口角を上げて妻の手を取った。
なにやら陰謀論めいた長谷川の言葉に、安藤は思わず眉を顰める。
杉山光男の足取りを調べることが、一体何のリスクになるというのか。
「あ、あの……では、私たちは、杉山氏……S氏とでもしましょうか?
S氏の足取りを何も調べられない、ということですか?」
真美子が正面から真っ直ぐ長谷川を見据える。
フォークとナイフを固く持つ手が少し震えている。
長谷川はチラリとまた周囲に注意深く目を遣った。
内ポケットから小さな紙片を取り出して、テーブルに置いた。
「コペンハーゲン修学院大学の地図です。
イヴァン・レフチェンコ教授は……今、世界中を飛び回っておいでで……奥方の久世・レフチェンコ・弓子さんでもほとんど会うことはないそうです」
ノーベル賞の晩餐会で会ったのが数年ぶりだという。
既に二人は事実上パートナーを解消していたのである。
あんなに仲睦まじい姿がテレビで映し出されていたのに。
「若い女に走ったのよ。弓子さんと離婚しないのは、どうせ彼女の財産が目的でしょ」
「こらこら、エリちゃん。そんなこと言わないの」
長谷川はエリカの手を握って抑えようとするが、エリカは華麗に躱してワイングラスを手に取り、瞬く間に空にした。
「この人だって……前科が無いわけじゃありませんからね! 男ってイヤね。真美子さん、新婚さんなのに、こんなこと言ってごめんね!」
めちゃくちゃぶっこむタイプである。
真美子が目を見開いて、唖然としている。
どうもエリカは見た目とは裏腹に酒には弱いらしい。
いきなり眠そうな表情を浮かべている。
「と、とにかく! お二人はイヴァン・レフチェンコ教授を捕まえてまずは話しを聞いてみてください!
今回の二人の主たる目的は確か早瀬篤子さんとおっしゃる女性の父親探し、ということでしたよね!
スギヤ……S氏のことは、私は面識はあるが協力は出来ない、ということで、ホント勘弁してください!」
最後の方はむしろ悲鳴に近かった。
安藤は苦笑して頷いた。
ここは頷くしか方法がない。
長谷川が会計を済ませている間、真美子と安藤は店の外に出た。
年末の飾りが街を彩っている。
そして、信じられないくらい寒い。
真美子がコートの襟を合わせた。
そして、プッと吹き出す。
「高いスーツ着てても、あれじゃ形無しね」
「そうでしたね」
安藤もウンウンと頷いた。
長谷川の人間臭い一面に……思わず笑いが込み上げる。
安藤は真美子の手を握って温めた。
デンマーク滞在中に、イヴァン・レフチェンコを捕まえられるかが勝負となる。
杉山のことは……きっと篤子の出生を探っているうちに、明らかになるような。そんな気がした。
今までも安藤が動けば、自ずと答えが導き出されてきたのだ。
まるで何かに導かれるように。
コペンハーゲンの街に綿あめのような雪がチラチラと舞い降りてきて優しく真美子と安藤を包んでいった。




