第197話 軍隊がない!
ジメジメした石造りの廊下に、カツカツと鋭い足音が響く。
狭い牢で片膝を抱いた体勢で、黒田長政は顔だけを足音の方に向けた。
「どうお過ごしかな? 筑前守?」
西洋風甲冑に身を包み、勝ち誇ったような笑顔を張り付かせた女が長政を見下ろしている。
「どうって……この通りです……」
長政は戯けたように、両手を拡げる。
――揖斐川前線のほど近く。
急拵えの洞窟を利用した牢は、流石に立てないほど天井は低くはないが、自由に歩き回れるほど広くもない。
四畳半ほどの陽も差さぬ牢屋で長政が押し込められている理由は目の前の女な訳だから、長政としては……どうにも質問に応えようが無い。
「この前までは、そちら側に妾も居ったのだ。人生とはどうなるか先など見えぬものだな……筑前よ」
瀬名は眉を八の字にして、鉄格子に細い指をかける。
長政は頭を軽く振った。
先ほど看守が暑さ対策で水を浴びせてきたので、少し伸びた髪から水滴が飛ぶ。
「外は凄い熱気だぞ」
瀬名の赤い唇がニッと広がった。
「妾の軍隊は頗る士気が高い。やってやろう、という気概に満ち満ちておる」
鉄格子の向こう。
瀬名の瞳の奥底がキラリと光る。
まるで獲物を捕らえたような興奮状態である。
「今まで……虐げられていた者たちが、手に手を取り合って前に進もうとしておる。妾を先頭に革命を起こそうとしておる。
まるでドラクロワの『民衆を導く自由の女神』のように。
妾は……長い年月、この時を夢見ておったのかもしれぬ」
長政は首を傾げる。
革命の気概、というよりかは男たちは物見遊山に行くかのような気安さで集まっているように見える。
単に乗せられているのだ。
「……そなたも、どうじゃ? 妾の軍勢に加わらぬか?
今だったら妾はそなたを参謀に指名する用意がある。筑前」
瀬名はニコニコと無邪気な様子で長政に微笑みかける。
「せっかくですが……それはご遠慮いたします。負け戦に加わるほどバカバカしいことはございませんから」
「……妾が負ける、と申すのか?」
瀬名の目の奥が急速に醒めるのを感じる。
「はい。間違いなく」
瀬名はフッと笑った。
「面白い! 賭けじゃな。悪いが今の状況、妾の勝ちじゃよ、筑前」
ようやく長政は立ち上がり、瀬名の前に歩み出た。
小柄な瀬名を上から見下ろす。
「では、貴女の軍隊はどこにありますか? お姫様?」
長政の藪睨みの目が鋭く瀬名を捕らえた。
「お姫様は……分かってらっしゃらないが、後ろ盾もない、実戦経験もない、貴女個人の軍隊もお持ちでない……貴女に命を預ける家臣団もいない……これでは、いつ貴女が裏切られて見棄てられたとしても不思議じゃありません」
ガシャン! と音を出して長政は鉄格子を掴む。
「あんな烏合の衆……しかも貴女の軍勢ではないのに……茶々様の軍勢に太刀打ちできますか?」
瀬名は腕を組んで、余裕の笑みを崩さない。
「茶々の軍勢……? では、こちら側だって、妾の軍勢であろう……? 何の違いがあるのだ?」
「大アリですよ! 当たり前でしょう。茶々様は貴女以上にガッチリ男どもの心を掴んでますよ!」
長政の声が洞窟内に響き渡り、従者の田所が飛んで来て、瀬名の肩を掴んで鉄格子から離そうとする。
「よくご存知かと思いますが、武将ってのは大変にイヤなところのある生き物で……自らが生き残るためなら子でも妻でも何でも差し出す、非情に醜い生き物なのですよ」
荒木村重が有岡城で、父・官兵衛を捕らえた時……当時、松寿丸と名乗っていた長政は当然、見棄てられたと思った。
一方、有岡城を落ち延びた村重は結果としてだが、妻子を犠牲にした。
そんな残酷物語は掃いて捨てるほど、ある。
自分の物語が、異常に運が良かっただけで。
水滴が目に入る。
長政は手の甲で拭って、一気に捲し立てた。
「一時的に人気を得たって、利用されて棄てられるのがオチです。そんな連中の旗印になるなど、愚かの極み……悪いことは言いません。
貴女を救えるのは、きっと私だ!
私の言うことを聞きなさい。いいですか?
性急に攻め立ててはならない。あちら側だって、そりゃ、甘いとこあるけど軍人の端くれです……貴女を狙ってくる。
一番、弱くて効果的なところを狙ってくるんだ」
自分だって、やってきた。
父の命だったとは言え……自分の許嫁を磔刑にすることに加担したことだってある。
一度は、顔を合わせたことのあるまだ年若い姫だった。
「貴女は……戦争に勝つことがゴールとは思っていないのでしょう? 貴女の革命とやらは……弱い者を力で捩じ伏せる世界のことなのですか?」
瀬名の目の色が変わった。
「違う」
見開いたまま、一瞬、能面のような虚ろな表情になった。
何かを思い出したかのように、唇が開いて少し震える。
「瀬名……!」
長政は名を呼んで瀬名の一瞬の迷いを捉えようとする。
「弱い者を妾が救うのだ。だから、妾は茶々にも勝たなければならない!」
目に力が戻った。
瀬名はかろうじて気持ちを立て直し、その場を切り抜ける。
「女だとしても権力者には容赦はせぬ! 妾が力を持たねば……弱い者は死ぬまで蹂躙され続ける。今までどおりに!」
瀬名は長政に言い放って、くるりと背を向ける。
田所の支えを振り解く。
「妾が! この世界を変えるのだ!」
◇
田所が帷幕をサッと開ける。
帷幕の中には田中吉政、池田輝政、山内一豊、小川祐忠の四名が采配を手に各々の床几に座っていた。
瀬名姫の登場に四名は一斉に立ち上がる。
「夜に紛れて布陣し、陽が昇ると同時に総攻撃を仕掛ける手筈で動きます」
田中吉政が白い歯を見せながら、ハキハキと瀬名に伝えた。
「うむ……明朝」
瀬名が席に付くと、自然と四名も床几に腰を下ろす。
「妾は、性急には攻め立てぬぞ」
瀬名は机に頬杖をつきながら言った。
長政から言われたからではない。
瀬名は最初から「まずは様子見をする」
――そう決めていた。
「あちら側にタネを仕込んである。明日は妾の味方があちら側の軍勢に背後から銃を突きつける。その手筈は、もう済んでおる」
瀬名によると西軍での寝返りの兵士は、ざっと五千を超えるという。
既に宇喜多家・家宰、明石全登と約定を取り交わした。
「こちら側の兵を、今削るなどバカバカしい。むろん、伊吹山を手に入れれば西軍などひとたまりもない」
池田輝政が吹き出す汗を懐紙で拭っておずおずと言った。
「瀬名姫様、お言葉ですが……兵士たちは既に戦闘態勢に入り、暴発寸前です。待て、と言っても聞き入れませんでしょう」
同意を込めて山内一豊もウンウンと頷いた。
「だがしかし、妾たちは戦争屋じゃないのだぞ!」
瀬名は人差し指を鼻先で振る。
小首を傾げて彼ら四名の顔を順々に見た。
「妾たちは、単なる戦争屋ではない。あちら側の一部の兵士が我らへの寝返りを確約しておるのだから、無駄な戦闘は避けるべきであろう。当たり前の話じゃ」
勝ってからが勝負。
一旦、土地や領民を占領できたとしても、統治し続けるのが難しいのだ。
勝った後のために、少しの味方も減らすことは出来ない。
「瀬名姫様……申し訳ありません! 瀬名姫様は、実戦経験があられないため、何かお考え違いをしておられるのかと」
田中吉政が声のトーンを上げた。
良く響くカラッとした明るい声だ。
「考え違いだと?!」
思わず瀬名の目が尖る。
「ここまで焚き付けられた軍勢が……一戦も交えずにおめおめと逃げ帰るわけには参りません。
もしあちら側に味方があったとしても、明日の朝は我らはシッカリと彼奴らを攻め立てます」
吉政は陽に焼けた顔を歪ませて笑う。
「妾は、大規模な戦闘は認めぬと申したのだが?」
――ひとえに、短期間でここまでの大軍勢を集めたのは、瀬名の計略のおかげである。
瀬名としてはそれが西側でも成功しているのだから、という思いがある。
「瀬名姫様……ご心配には及びません。闘いは我らにお任せください。餅屋は餅屋ですよ」
田中吉政は気安い様子で瀬名の左手に触れた。
瀬名は素早く手を引っ込めて、眉を顰める。
今回の渡河作戦では夜のうちに大小の舟を数隻用意し、それも一箇所に集中させて一点突破で攻め立てる構えである。
吉政らの作戦に異を唱えているわけではない。
――だが。
「瀬名様、この一豊、命を賭して瀬名様をお護りする覚悟。ご安心なされよ」
肉付きの良い人懐こそうな笑顔を浮かべて、隣の山内一豊も瀬名の顔を覗き込む。
「……妾の言うことを聞かぬわけではなかろうな?」
瀬名は底知れぬ不快感を喉元に詰まらせながら、言葉を発した。
「もちろん! 西側のお味方から挟撃の狼煙が上がれば、深追いはいたしません」
小川祐忠も嬉しそうに話す。
祐忠の息子・祐滋が三成と昵懇だったため、関ヶ原寝返り組としては徳川方の恩賞に預かれなかったという忸怩たる思いがある。
今回はいち早く瀬名姫軍への加入を名乗り出た。
瀬名は考える。
明石全登の裏切りにあった敵軍は、大垣城へのルートを敗走することになるだろう。
逃げ道を一つ残しておくことはセオリー通りである。
敵軍が大垣城に全て収まれば、それを取り囲んでの城攻めとなる。
奇しくも関ヶ原の小早川秀秋の裏切り劇を再現するような形になるのだ。
「妾が救うのだ」
瀬名は形の良い唇でそう発音した。
全ては夜が明けた瞬間に始まる。
今は……それぞれの思惑をただ真夏の暑さが呑み込んでいった。




