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第196話 他に方法がない!

 家康と三成――二人が同時に消えるという大事件のあった7月も下旬に入る頃。


 一組の夫婦が夜陰に紛れ、揖斐川を渡って来た。


 大垣城に着いた頃には、ようやく白白《しらじら》とした朝の光が黒い廊下に差し込んでいた。


「茶々様!」


 伊奈図書の背後から……飛び出して茶々の元へ駆けつけたのは初《うい》である。


 大垣城・本丸の回廊で、茶々は両手で初の背中に手を回して強く抱きしめる。


「初……良かった……無事で」


「茶々様、会いたかった!」


「茶々様……この度はご迷惑おかけいたします……」


 目深に被った陣笠を取ったのは、松平忠吉である。


 彼は、二人の女の邂逅《かいこう》を暫し柔らかな視線で見守っている。


 松平忠吉と初の夫婦の「西軍への亡命」であった。


「筑前守(黒田長政)まで……敵軍に取られてしまって……」


 亡命の段取りをした伊奈図書が額の汗を拭いながら申し訳なさそうに呟く。


「長政は夢の軍門に降ったということ?」


 茶々は図書にストレートに尋ねた。


「いや……そうでは無いと思います。筑前は、武蔵守(池田輝政)を説得して寝返らせようとしてましたから」


「失礼ながら……それは、まだ分かりませぬ」


 甲高い声が朝の廊下に響く。


 石田重家が小さな背中をすっと伸ばす。


「筑前守は……機を見るに敏。勢いのある方に付くのは必定《ひつじょう》かと」


 重家は伊奈図書と忠吉夫婦に恭しくお辞儀をした。


 為政者に対しては、不躾であったとしても時勢をハッキリと言葉にしなければならない。


 取り巻きの者が為政者に遠慮して、希望的観測のみを伝えたならば、為政者が判断を誤る虞《おそれ》が生じる。


 確かに今、瀬名姫は破竹《はちく》の勢いで兵士たちを纏《まと》め上げている。


「刑部はどう思う?」


 茶々は不安げな瞳を見開いて大谷に尋ねる。


「彼が夢……瀬名姫の方に付くとは思いたくない」


 大谷は黒田長政の藪睨みの目を思い浮かべる。


 冷徹だが、一旦味方となればどこまでも頼りになる男である。


「執務室のメンバーには、今日の午後、俺からお二人のことはお話します。それまでゆっくりとお部屋でお休みください」


 国民へは、表向きには、医師の曲直瀬玄朔がこちら側にいるので里帰りの出産のため、という理由を説明する。


 しかしながら――黒田長政にまで裏切られたため、已《や》む無く夫婦共に亡命した、と見る向きが多いだろう。


「赤ちゃんのことだけ考えて……初、大丈夫だからね」


 茶々はか細い初の手を握った。


 初の瞳からハラハラと涙が溢れ落ちる。


「あの瀬名姫という人は、不思議です。どうしてそこまで私たちを憎むのか……」


 茶々は瀬名姫にデマチラシでも苦しめられた。


 初も身重の身で、加護を受けるどころか瀬名姫に追いやられた。


 瀬名姫は、初が初めての出産で心細い状況なのは分かっているはず。


 それなのに、亡命するまで追い詰めるとは……。


 同じ女性なのに、なぜなのだろう?


――何とかしなければ。


 私(・)が(・)何とかしなければ……!


「初! 私が付いてるから安心してね!」


 茶々はともすると崩れそうになる心と身体を歯を食いしばって奮い立たせる。


 大谷刑部はその茶々の強張った顔を隣でジッと見つめていた。



  ◇



 執務室での打ち合わせを終えて大谷刑部は二の丸に戻った。


 木製の引き戸をノックもせずに勢い良く開ける。


「あんた……! 何をやってるんだ? 女房を放っておいて、あんた、何サボってんだ?」


 大垣城の二の丸・石田家家臣団の部屋の一角に、戸田勝成と息子・戸田内記の部屋がある。


 そこに大野治長が横たわっていた。


 ゆっくりと上半身を起こす。


 治長も茶々に負けじとだいぶ顔色が悪い。


「貴方に……家族のことに余計な口を出して欲しくないのですが……」


「いやいや、茶々様はギリギリの状態なんだ! あんたが護ってやらねば、一体誰が護るというのだ?!」


「それは貴方が……」


――側にいてやったら良い。


 大野治長は言いかけて止めた。


 あまりに自虐が過ぎる。


「貴方に言われなくても護るさ……僕に考えがある」


 戸田勝成が大谷に目配せをして出ていった。


 島左近も最近まで同室であったが、今は主君の空の部屋を使用している。


 勝成が扉を閉めるのを確認してから、刑部は尋ねた。


「考え、とは?」


「……今はまだ言えない」


「随分と水臭いんだな」


 揖斐川の向こう岸で、二人が共闘したのは記憶に新しい。


 大野治長は真剣な表情で大谷刑部の案を聞いて、メモを取って寸分違(たが)わず実行に移した。


 二人の「茶々を護る」という共通認識が、ある意味、二人の絆となって上手く機能した。


「……貴方に言ったら反対されるに決まってる。貴方は思慮深い人だから……」


 治長は聴き取れないほどの小声でゴチャゴチャと話す。


「……でももう、それしか方法がないんです」


 大谷刑部の背後で扉が勢い良く開いた。


「ただいま戻りました!」


 勝成と入れ違いに戸田内記が部屋に戻ってきた。


 男二人の対峙《たいじ》をマジマジと見つめる。


「……何か、あったのですか?」


「内記、君のお父さんは一体何をしようとしてるんだ?」


 大谷は振り返って今度は内記に尋ねる。


「……何って?」


「直希、余計なことは言わなくていい!」


 治長は突然、声を荒げた。


「大谷さん……直希は正月明けに重要な模擬試験を控えているのです。これから一緒に勉強しますから、すぐに帰ってもらっていいですか?」


「お父さん! 僕は大丈夫だよ!」


 内記は治長の肩に手をやる。


「いいから!!! とっとと帰ってください!」


 地の底から湧き上がるような大音声である。


 二の丸の廊下にまで響き渡っただろう。


「貴方に言われなくたって……僕はあっちゃんのことをいつだって一番に考えてる!

 家族の問題に《《部外者が》》口を挟まないでいただきたい!」


「お父さん! それはないでしょう?!」


 内記が悲鳴交じりに訴える。


 大谷刑部ほど、この世界で早瀬家のために力を尽くしてくれる人はいない。


「お前は黙っていなさい!!」


 内記は唖然として口を開けた。


 お父さんに怒鳴られたことなんて……今までない。


「内記くん。大丈夫だよ。申し訳なかった。そうだったね。俺が悪かった。家族でもないのに……」


 みるみる蒼白になる内記の顔を見て、大谷は慌てて言葉を紡ぐ。


「修理殿にも悪かった。夜に……失敬」


 スルリと大谷刑部が扉を開けて退場する。


 内記は、泣きそうになりながら父親の顔を振り返った。


「……お父さん、どうしちゃったの??」


 いつもはにかんだような笑顔を浮かべている。


 穏やかで、世界中を探してもいないくらい、誰よりも優しい人。


「直希……とにかくお父さんはこのままログインを続けて、魔法ポイントを稼ぐから。お前はなるべく現代に戻りなさい」


 大野治長の顔色は真っ青で、目の下には黒いクマが浮き上がっている。


 見るからに、何かに取り憑かれていそうな様子だ。


「お父さん……少しは休んでよ……苦しんでいることがあったら僕に話してよ」


 内記は父親の分厚い肩に手を延ばす。


 頬をその背中に充てた。


 幼い子供みたいに。


「僕はそんなに頼りない? お父さん……一人で苦しまないでよ……」



  ◇



「ぎょ、刑部様!!」


 執務室に向かう廊下で秘書の千野伊織が血相を変えて飛んできた。


「敵に動きが! 揖斐川の向こう側、夜陰に紛れて陸続《りくぞく》と部隊が配置されています……!」


「思ったより早いな」


 大谷刑部はため息交じりにふぅッと息を吐く。


「早朝……陽が明けたら一気に攻めかかる様子……どうされますか?」


 伊織の切れ長の目が鋭く光った。


「軍議を開く。すぐに執務室メンバーを」


「もう既に全員、執務室にお揃いです」


「和泉守(藤堂高虎)と図書殿も呼んでくれ」


 大谷は井戸で身体を清めた後、執務室のドアを開けた。


「背後を突けるか?」


 藤堂高虎の顔を見るやいなや、大谷は早口で言った。


「いや……難しいですね。一枚岩では無いですし。既に忠吉様は亡命なさってる。大将はいない状態ですから」


 反瀬名姫派が、まとまってからの侵攻では遅い。


 瀬名姫は充分に理解しているのだろう。


 まずは、反瀬名姫派は静観を決めると、彼女は踏んだ。


「筑前守が瀬名姫様の軍勢に加わったという噂が東軍領内で駆け巡って……忠吉様は命の危険があることから、図書殿に伴われ亡命なさった。

 貴方のその判断は間違っていないと思います」


 高虎は一気に言ってから茶碗の水で口を潤す。


 大将が逃げた、という意見も出るだろうが忠吉夫妻が人質となって、こちらが身動きを取れなくなるのは避けたい。


 亡命計画には大谷刑部も加わっていた。


「……挟撃《きょうげき》するには、時間が必要です。 でも、相手だって布陣はしたものの、性急に攻めたりはしないはずです。

 背後に忠吉様の軍がそっくりそのまま残っているわけですから」


 大将はおずとも、井伊直政や本多忠勝など、徳川家歴戦の兵が無傷で残されている。


 彼らは命懸けで忠吉夫妻を護る覚悟であったが、曲直瀬玄朔の元で初を出産させるため、しぶしぶ亡命に了承していた。


「相手は並大抵の覚悟じゃなさそうだ」


 瀬名姫の軍勢は彼女に焚き付けられて、一歩も引かぬ構えである。


 大谷は歯噛みする。


「一気に攻め立てて武功を上げれば、なし崩し的に彼女は全てを手中に収めることができる……瀬名姫のことだ。布陣に抜かりは無いだろう」


 高虎の彼女は「性急に攻めかかったりしない」という意見はあくまで希望的観測である。


 大谷はみなの顔を見渡しながら言った。


 瀬名姫としては、まず先勝すれば自軍に勢いが出る。


 日和見《ひよりみ》や静観を決め込んでいた者たちも、雪崩《なだれ》込むように瀬名姫に味方するだろう。


「防ぎきれますか?」


 か細い声で言ったのは長束正家である。


 青白い頬を持つ吏僚《りりょう》は、防御戦の厳しさも知っている。


 関ヶ原後は治めていた水口城に入城するのが精一杯。


 和睦《わぼく》が成って城を出てきたところを欺かれ、捕縛された。


 この場にいる誰もが不安に心が揺れている。


「やってみよう。大将は……中納言様、頼めますか?」


 中納言・宇喜多秀家の美しい瞳が光った。


 大谷刑部の顔を見返すと……不安げな表情は瞬時に消え失せ、口元に悠然とした笑みを浮かべる。


「覚悟は既に決まっておりますゆえ」

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