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第185話 やるしかない!

 大野治長が座敷牢の前で立ち止まる。


 背中を向けて眠っていた小早川秀秋が人の気配を感じたのか胡乱《うろん》げに振り返った。


 秀秋の目にゆっくりと光が灯る。


「修理!! こちらに来ていたのか?」


 子どものように飛び上がって駆け寄る。


 格子《こうし》がもどかしいようで、彼は手を伸ばす。


 身体いっぱいに治長との再開を喜んでいるようだ。


「ご加減はいかがですか?」


 治長は秀秋の貴人らしい柔らかな手を握った。


「うむうむ……大事ない。そなたこそ、大丈夫なのか?」


 治長の顔色の悪さに気がついたのか、秀秋は治長の顔を覗き込む。


 治長が曖昧な笑みを浮かべて手を離そうとすると、秀秋はかえってグッと指に力を込めた。


「修理……い(・)よ(・)い(・)よ(・)だな」


 普段は昏《くら》さを帯びている秀秋の目の奥底《おうてい》が爛々(らんらん)と光る。


「……金吾様、そのことなのですが」


 意を決して、治長はひと呼吸おいた。 「やはり……僕には出来そうもない」


「何を言ってるんだ? 修理!」


 秀秋の声は悲鳴に近い。


「内府も治部もクタばった今……良いチャンスではないか?」


 秀秋は家康と三成が瀬名姫に突き落とされたことを知っていた。    

 

 秀秋はジッと治長の顔を見つめる。


「分かるよ……淀(茶々)のことが心配なのだろ?」


 確かに治長の頭の中には、茶々のこと以外にはない。


 究極、彼女が無事に帰ってきさえすれば良い。


 この世界の責任を負うつもりはない。


 というか、自分には責任は負えない。


 心は傷むものの、その器ではない。


「そこは……俺が何とかするから。俺の言う事だったら、あ(・)の(・)人(・)は必ず聞くのだ」


「……」


「修理よ、淀の体調はどうなのだ?」


 秀秋は抜け目のない表情をする。


 こんな時、秀秋を本当に信用して良いのか治長は迷う。


「絶不調なわけだろ? 治部が不甲斐ないせいで。クソほどの役にも立たぬ男だ」


 確かに三成が居ない世界で、どうやって茶々を護れば良いのか治長には分からない。


 もちろん、護る気概はある。


 命を懸けてでも。


 但し、治長がまだまだ戦国時代の気風に馴染めていない以上、不測の事態への判断や対応が遅れそうだ。


「そ(・)な(・)た(・)の(・)淀がこの世界で延命し、現世でも健康な身体を取り戻すには……やるしかない」


 必死の懇願である。


 秀秋の爪が痛いほど腕に喰い込む。


 不思議なほどリアルな痛みが――治長をこの世界に誘《いざな》う。


「分かりました。あっちゃん……篤子に話してみる。直希にも」


 決断をしなければならない。


 茶々……篤子を救うために。


 時間は有限である。


「頼む!! この世界を救うためだ! 何よりも淀を救うためだ!」


 秀秋の目が恍惚を帯びた。


 治長も思わず秀秋の手を握り返す。


 この混乱の世を一刻も早く治めなければならない。


――天下統一。


 一度始めたGAME(ゲーム)はクリアしなければ、終われない。


「頼むよ! 修理! 俺からの恩を忘れるなよ!」



  ◇



「で、パスポートは取ったの?」


 本郷真美子が天ぷら蕎麦を頬張りながら安藤に尋ねた。


「もちろん! 海外なんて初めてなんで……ほんと不安ですよ。英語も、そんなには喋れないし……飛行機も、国内線で乗った数回だけだし……十時間以上なんて。はぁぁ」


 怖すぎて、寒気がする。


 安藤は箸を片手に身震いした。


「でも、このために休み取ったんでしょ?」


「まぁ……そうなんですけど」


 教頭の望月先生と前々から協議を重ねて、1月の8日まで休みを延ばしてもらった。


 26日に出発だから……何と13日間の教師人生始まって以来の大型連休である。


 いつもだったら毎年東京で開催されるMEIMORE(メイモア)の年越しコンサートを配信で観るくらいで、広島の実家に帰っての寝正月が常だった。


「まぁ……私もパスポート10年にしておいて、良かったわぁ」


「……」


「とにかく! いよいよ最後の大詰めね! 貴方にとって初めての海外旅行がコペンハーゲンかぁ……めちゃくちゃハードル高いわよね」


「あ、あの一緒に行ってくれるんですか?」


 確かに不慣れな安藤に変わって、コペンハーゲン行きの切符を手配してくれたのは真美子である。


「あのさ……」


 真美子は蕎麦を麺つゆに付けたまま、固まる。


「なんであ(・)の(・)望月先生が貴方の大型連休を許可してくれたんだと思う?」


 教頭の望月は部下であっても生徒であっても、すべからく勤務態度や生活態度に厳しいことで知られる。


 安藤は蕎麦を咀嚼《そしゃく》しながら、休みの許可が下りた時の望月先生の意味ありげな視線を思い出す。


 確かに不思議だ。


「私(・)た(・)ち(・)が新婚旅行に行くって言ったからに決まってるじゃない?」


「はぁ??!」


 安藤は思わず蕎麦を吹き出しそうになった。


「だ、だって……僕たちは!」


 確かにこのニヶ月ちょっとの間……安藤と真美子はほとんどの週末を一緒に過ごしてはいたが。


 まだ……というか、安藤の意気地がなくて、まだ友達のままである。


 こんな……スピード婚。


「今は籍を入れない形だってあるわけだし、教師なんてそもそもリベラルが多いのだから、別姓でいたい、とか言ったら一発よ」


 私学だから……確かにそこまで厳格ではないが……大胆な真美子に思わず舌を巻く。


 もちろんこれでは特別休暇にはならないだろうが……現に有給休暇を使っての大型連休の許可が奇跡的に下りた。


「それに貴方、英語だって覚束《おぼつか》ないじゃない? ということは私が居たほうが何かにつけ良いわよね」


 真美子は英語教師である。


 そういえば最近、職員室で英語担当の教師たちが真美子を取り囲んで打ち合わせを重ねていた。


 休暇のため他の人に迷惑をかけるから、綿密に打ち合わせていたのだろう。


――偽装結婚……なのか?


 安藤はあまりのことに頭を抱える。


 真美子の両親にもまだ挨拶にも行っていない段階で、彼女と新婚旅行に出かけるのである。


 なんてクソ野郎なのだ。


 しかも、コペンハーゲン! 


 成田空港から直行便が出ているものの片道13時間ちょいの空の旅(フライト)である。


「や、やるしかない!」


 ここまで来たのだ。


 やるしかない。


 安藤は背広の胸ポケットから名刺を取り出す。


――在デンマーク 日本国大使館 、


 政務部参事官 長谷川吉彦


 久世弓子から紹介された外務省の長谷川吉彦の名刺を握りしめる。


 デンマークのコペンハーゲンにある日本大使館の職員で、職位は政務担当の参事官である。


 雲の上の存在。いわばエリート中のエリートである。


 なんと長谷川は、久世弓子の言いつけでコペンハーゲンの空港で安藤を出迎えてくれるという。


 彼の正月休みは敢え無く返上ということになる。


「ちょっと! クシャクシャにしないでよ!」


 真美子に叱られる。


「旅費は出しますよ」


 やっぱり、真美子が付いてきてくれるならめちゃくちゃ嬉しい。


 元々、このために愛車トミーカイラを手放す準備は出来ていた。


 もう見積もりは貰っている。


「ううん。いらない。私が行きたいんだもん」


 真美子は細い指で湯飲み茶碗を包み込む。


「見届けたいんだもん。篤子さんの物語を。篤子さんと杉山さんの物語の終着点をシッカリとこの目で見たいんだもん」


 真美子の長いまつ毛が揺れて、黒目が少し潤んだように見える。


 安藤の視線に気がついたのか、真美子は慌てて微笑んだ。


 丸い大きな瞳が安藤の顔をイタズラっぽく見つめ返す。   


「ま、コペンハーゲンなんて、こういう機会が無いとなかなか行けないでしょ?」


 真美子は窓の外に停めてあるトミーカイラに視線を移した。


「車……売るつもりなの?」


「まぁ……ちょっと最近、散財が過ぎましたので……」


 元々、車以外はそれほど趣味が無く、派手な生活とは無縁だったので別に貯金が尽きたわけでは無い。


 しかしながら……通帳残高は独身中年男としては幾分頼りない金額である。


「売らなくていいよ。何とかなるわよ。またコツコツ働けばいいじゃない?」


 ふと思いついたように真美子は手を打った。   


「あっ! ウチの割烹《かっぽう》で春休みは雇ってあげるわよ」


 真美子の実家は本当の伊吹山の麓……滋賀県米原市で古くから割烹を営んでいる。


「副業って禁止じゃなかったでしたっけ?」


 不思議だ。


 真美子が何とかなると言ったら何とかなるような気がする。


 彼女と居れば、これからも自分は諦めずにどんな困難にも立ち向かっていけるような気がする。


 ずっとそう感じていたのに……そんな気持ちに蓋をして、気が付かないふりをしていた。


 意気地がなく、どうしようもなく臆病だったからだ。


 赤いイヤリングが本当によく似合う。


 ニッと真美子が赤い唇で笑った。


「まあ、妙なことばっかりだったんだから……こんな妙な新婚旅行があっても、いいんじゃない?」

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