第175話 こんなに愉快なことはない!
大野治長は清州城の豪華な一室で朝を迎えている。
室内には大坂城で秀吉が使っていたようなベッドがあり、フカフカの感触は現代の物よりも心地良いくらいだ。
寝室の隣の間で古田織部……治長の茶の師匠が直々に茶を立ててくれている。
起きたての治長はそれを一気に飲み干した。
茶碗は長次郎作・黒楽茶碗である。
国宝『ムキ栗』に似ている。
贅沢の極みだ。
彼が軟禁状態に置かれているのでなければ。
「まだ……二人は見つからないのですか?」
おずおずと治長が織部に尋ねた。
織部は無言で首を振る。
「祈ってます……二人が生存して、見つかるのを」
治長がため息交じりに言った。
結局、彼の魔法では台風の進路を変えることもままならない。
「本当に?」
織部の円な瞳が、小さく瞬く。
「本当? えっと……それは、どういう意味ですか?」
治長は思わす訊き返す。
「本当は……どちらにも、生き残って欲しくないのでは?」
織部はイタズラっぽい笑みを頬に浮かべる。
「はい?」
治長は驚いた。
「そんなわけないでしょう」
何よりも人命が大事である。
話はそれからだ。
「ワシだったら祈らないね……そんな綺麗事で収まるような現実じゃないでしょ」
織部の言い分もご尤もである。
当たり前に戦国時代なのだ。
――でも。
「僕はみなさんとは違う」
「へぇ……」
「僕は……戦国時代の記憶もあるけれど、それだけじゃない。他にも大切な思い出もアップデートされた価値観も持ち合わせている」
治長は黒楽茶碗の口を付けた部分を布で拭った。
「みなさんが……かわいそうに思える」
誰が権力を握るかで右往左往している。
誰も本当に大事な物を手に入れたことが無いからだ。
力とか、お金とか、派閥とか……そんなもので安心を得ようとしたり、自尊心を満たそうとしたりしている。
「どっちが気の毒かって言ったら、ワシにしたみたら、断然そなたの方が気の毒だけどな」
織部は自身の形の細く整ったダリみたいなヒゲを手で触りながら笑った。
「現代的な価値に囚われてばかりいると足元を掬われるぞ」
今の治長は甘い。
人は説得したら胸襟を開いて話をとりあえずは聞いてくれる、なんてこと思っている。
「大事な時に助けてくれる人間はいない……なんてことにならにゃいいがな」
織部が知る大野治長は感じの良い人懐こさの内に、研ぎ澄まされた刃物が顔を出すみたいなところのある男だった。
表面上穏やかで……其の実、何を仕出かすか分からない。
現代での穏やかな生活が、彼の本質まで変えたのか。
「悪いこたぁ言わない……そなた、甘いだけだとあっという間に魑魅魍魎達に磨り潰されるぞ」
治長としては、もうログインしてしまったのだ。
逃げるわけにはいかない――。
この世界にある程度適合するため、職場に休職届を出して集中している。
「僕は、諦めない」
――この手に意識を取り戻した妻の篤子を抱きしめるため。
織部の目には挫けそうになる心を必死で奮い立たせているように見える。
「まぁ……頑張れ」
古田織部は治長の部屋を後にした。
監視の者が……分厚い南京錠をガチャリと閉める。
織部は看守の役人に言っても良いかと思っていた。
「上様の命であろうが……もう、監視を解いても良いのではないか」
というセリフを。
家康は既に清洲城に居ないのである。
王の居ない城で、もう王命を守る必要がない。
ところが織部の心には、「みなさんとは違う」と言われた言葉が小さい棘のように刺さっていた。
彼は心に決めていたセリフをついに言わなかった。
――古田織部よ、その胸の内はどうだ?
織部は自問する。
徳川家康と石田三成が五条川に消えてから一週間……これほど胸踊る事態は想像も付かなかった。
どちらが勝つのか?
――どちらに付けば有利か?
――常にそればかりに気を取られ、二人がいっぺんに消えることなど考えもしなかった。
その間、織部は何人もの弟子と会い、何人も疎遠にしていた東軍諸侯たちに会った。
極めて精力的に。
みな一様に目を輝かせている。
すわ鎌倉――!
ようやく俺らの時代だ。
何人もの瞳がそう語りかけた。
誰もハッキリとは何も言わない。
ただ心配そうに、どうなるのか、どうするのか、話し合う。
興奮し、異様に目を輝かせながら。
確かに……大野治長はそういった類いの人間ではない。
今回の会話で、それはハッキリした。
雨が滝のように降っている。
コンクリートなどで整備されていない道は、泥濘んで、織部のお気に入りの袴を汚した。
「愉快だ」
織部は声に出してみた。
おためごかしをするよりも、自分に正直な方が好きだ。
自分らしいと思う。
「ああ、愉快だ」
土砂降りの中、意味のなさない和傘を放り出した。
『雨に唄えば』のジーン・ケリーよろしく、道の真ん中で踊り出しても不思議じゃなかった。
争いを好むべきじゃない。
そんなの分かっている。
でも自分には護らねばならぬものなど、もう残されていないではないか。
所詮、この世がゲームなのならば、面白おかしく愉快に生きて何が悪いのだ。
雨は織部の乾ききって干からびた心の奥深くまで濡らしていた。




