第168話 男の友情なんてものはない!
茶々のポニーテールが強い風に吹かれている。
揖斐川の岸で小姓姿の茶々が立っている。
小舟が一艘、揖斐川の西軍領内の岸に辿り着いた頃には日はとっぷりと暮れていた。
左近は松明を燃やして、大谷の足元を照らし、茶々の前に導く。
「恥ずかしながら……戻って参りました」
パンッ!
大谷刑部がいつもの笑顔を浮かべて、茶々に微笑みかけたところで、茶々は思いっきり大谷に平手打ちを喰らわした。
乾いた音が河川敷に響く。
「命を……大切にしなさいって言ったわよね??」
茶々は震える唇でそう言った。
「貴方の犠牲の上に、私は幸せになりたくはありません……貴方のやりようは独善的で……怒りを覚えるわ」
茶々の瞳からボロボロと涙が零れ落ちる。
「……良かった……帰ってきてくれて、本当に良かった」
茶々は大谷の胸に取りすがって泣いた。
大谷は彼女を抱き寄せることなく、左手は彼女の肩にそっと乗せ、右手は照れたように自らの首の後ろにやる。
その様子を後から舟を降りた三成と小西行長、木下頼継が見守った。
なぜか鼻の穴を膨らませて、木下頼継が勝ち誇ったように三成を見てくるのが癇に障る。
しばらくすると、もう一艘の舟が岸に到着した。
伊藤盛正と家臣数人、それに宮本武蔵が乗っている。
盛正の大多数の家臣団は、企みが露見した時点で既に西軍領内に到着していた。
盛正の姿を確認すると……迎えに出ていた長束正家が三成の後ろに素早く隠れた。
「どうも、どうも! いやー大変だったぁ」
伊藤盛正は口髭を触りながら、なにやら楽しそうにこちらに向かってくる。
「ちょっと! 伊藤殿! この前、俺らを弓矢で狙ったのは伊藤殿でしょ?
こんなふうに藤兵衛(長束正家)なんて、萎縮しちゃってるじゃないの?!」
三成は正家を指差して抗議する。
後ろに隠れた正家は、三成の肩に屈んで身を潜めながら、ウンウンと頷いた。
「あーー、あんなの、ちょっとしたカモフラージュでんがな。本気でやるんだったら天井から寝所に忍び込んで、一刀両断してますがな」
松明を手にした伊藤盛正は豪快に笑った。
とんでもない食わせものである。
確かに考えてみたら、衆人の目がある場所でわざわざ弓矢で暗殺する必要はこれっぽっちもない。
それほど大垣城内の要人警護は甘い。
盛正は、ひとまず東軍方の信用を得るために偽の暗殺未遂事件を起こしたという。
大垣城を知り尽くした盛正だったら、弓矢を放った部下を目立たぬルートで退避させるのも容易い。
「付け届け……返してもらうとこだった」
三成がボヤく。
「まだまだ受け付けております! 治部殿!」
盛正はフザケた敬礼をしてガニ股で去っていった。
その愉快な背中を見送る。
三成の隣にはいつの間にか、大谷刑部が佇んでいた。
月夜が二人を静かに照らしている。
「……すまなかったな」
三成は謝罪の言葉を口にする大谷を見上げた。
すっかり馴染んだ定位置である。
「いやいや、俺はヒーローを救い出した本物のヒーローのはずなのに、よもや意中の女とのラブシーンを見せつけられるとは思わなかった。
所詮、男の友情なんてのは儚いな」
大谷は三成に覆い被さるようにガッチリとハグした。
「……おかえり」
三成は大谷の肩をポンポンと叩いた。
二人は肩を組みながら、星空の河川敷をいつものようにバカな話をして笑い合いながら歩いた。
◇
「兵部も、平八郎も悪くないのです! 偏に私が悪いのです!」
二人の部下……井伊直政と本多忠勝を護ろうとしているのは、松平忠吉である。
いきなり忠吉の部屋に入って来た家康は立ったまま、息子の頭を見おろして問い詰めている。
大谷刑部および木下頼継の救出作戦は西軍側の小西行長とともに、忠吉が計略を練ったものである。
だから、忠吉によると二人は巻き込まれただけだと言う。
三国黒も彼が借り受けた。
「じゃあ……お前が全責任を取るのか?」
家康の言葉は烈しい怒気をはらんでいる。
特に本多忠勝は、石田三成と連携していた疑惑がある以上、下手な言い逃れはできない。
「父上が悪いのだ……父上が和平にとってジャマなのだ」
忠吉は顔から耳までを紅潮させている。
彼は父親を生まれて初めて詰った。
「なんだと? ワシがジャマだと? どの口が言うのだ?!」
家康は信じられない、といった顔で息子の顔を見下ろす。
公然と家康を批判する者など、この世で石田三成以外についぞ見たことがない。
「お前に、この世がまとめられるのか? ワシ無しで、お前がこの世で生き残る術があるのか?
なぜにそんな恩知らずな戯言を申すのだ?」
家康は視線を奥の部屋に向けた。
「良からぬ女に吹聴されたか?」
襖越しに二人のやり取りを聴いているであろう初に、家康は殺意を持った視線を遣る。
「この場でその女を斬る」
家康は脇差しの鍔に手をかける。
「お止めください! 初のお腹にはやや子がおるのですぞ!」
家康は瞠目する。
「貴方の……孫です。父上」
忠吉は父親の脇腹に縋り付いた。
父親の体温が伝わってくる。
「父上……どうか、その血塗られた手で孫を抱かないでください。どうか、戦国の世の呪いから自らを解き放ってください……どうか……」
忠吉は頭を下に跪いて家康の手を握った。
皮は固く、指は太く。
熱のこもった男の手だった。
「愚かな……息子を、哀れな息子にもし、一欠片の愛情があるのでしたら……どうか。怒りをお納めください。
私はいくらだって打擲されても構わない。甘んじて、貴方の憎しみを受けますから……他の者には、どうか寛大であってください」
「お前じゃなければ良かった」
熱い手を握らせたまま、氷のような視線で見おろしてくる。
「関ヶ原に連れて行くのが、お前じゃなければ……このように虚仮にされることも無かった。贅沢は言わぬ……せめて、秀忠であったなら」
忠吉は、心がズタズタに引き裂かれるのを感じる。
確かに兄の秀忠であったら……自分ような……大恩ある父親に反旗を翻えすような真似はしなかっただろう。
「信康だったら……! 信康……どうして? どうして、ワシにそんな大事を告げなんだ?」
家康は突如として、振り絞るように自ら切腹を申し付けた嫡男の名を口にした。
武田と通じているという疑惑のため、妻子ともども、家康が処した。
当時、織田信長の麾下にあった家康は……五徳姫の恨みのこもった告げ口により、大切な信康を切腹させることしか出来なかった。
信康はまだ二十歳だった。
五徳姫は信康の妻で、信長の娘である。
信長への愛娘の訴状は……家康のささやかで大切な家族を打ち砕くのに充分だった。
そして……家康の妻……最愛の瀬名は本当に武田と通じていた。
すぐさま家臣に命じて妻を誅した。
家康は信康の幻想を振り払うようにして、忠吉の身体を力任せに引き剥がした。
「信康! 信康よ。父を睨むのは何故だ。あの妻は……ワシに冷たかった。
あの女がお前を変えたのか……? お前の母がワシに当て付けで、お前を冥土へ連れて行ったのか……」
家康はその場に突っ伏した。
肩が震えている。
振り払おうにも……信康の幻影に取り憑かれている。
忠吉はそんな父親の様子を信じられないような面持ちで眺めた。
いつも冷静で、余裕があり、一瞬たりとも油断をしない男。
そんな男が自分の目の前で肩を震わせている。
忠吉の記憶では、家臣の前でも家族の前でも家康が信康に言及したことは、今まで一度たりとも無かった。
「ち、父上……」
「ぐうぅッ」
家康は慟哭のような唸り声を上げる。
しばらくすると……静かに上身を起こした。その目はヒドく血走っている。
「……追って、沙汰する。身内だからといって甘い処分を期待するなよ」
すくっと立ち上がって家康は言葉を吐き捨てた。
何事も無かったかのように、座敷を後にした。
「うっ、うっ……」
襖越しに初が泣いている。
襖を開けると初が身を伏せている。
畳には幾つもの零れ落ちた涙のしずくの痕跡がある。
忠吉は初を泣かせたくなかった。
お腹の子どもまで怖がらせたくなかった。
「ごめん、初……ごめん……!」
忠吉はシッカリと妻の細く震える肩を抱き寄せた。




