第167話 運命を呪わない!
通された会議室にはなにやらオルゴールのような微かに聞こえるメロディが流れている。
安藤はクゼ薬品工業のビルの一室で、全く落ち着かずにソワソワする。
通された来客室は白を基調とした豪華な部屋で、一見して高そうなリトグラフが飾られている。
――もしかして……パウル・クレー?
突然……携帯電話が鳴り響いた。
「わわわ……もしもし!」
「やっそじっまでーす!!」
「八十島さん……今、取り込み中なので、また後で掛け直します」
「え? 何ですか? ちょっと電波悪いですね……そうそう、この前言ってた宝箱なんですけど、この中から飛んでくる人っていうのが……」
「ちょ、ちょっと今は無理そうです。一旦切りますね」
「隠しキャラとか! 言ってたと思うんですけど……それが……」
電波が悪い。
安藤は慌てて電話を切った。
鳴らないようにマナーモードにする。
ここのところあの世界からは、やれすぐ育つ野菜が欲しいだの、トイレ用洗剤のサ◯ポールが欲しいだの。
そうかと思えば火傷の痕のような特殊メイク用のゴムが欲しいだの……めちゃくちゃワガママ言われて多少ウンザリしているのは確かである。
用途がよく分からないのもあるし。
良からぬことを考えている可能性もある。
今回は何も訊かず、送ってやったが。
甲高い音を立ててドアがノックされ、安藤は文字通り飛び上がる。
弓子夫人の後に若いスラリとした女性が入って来た。
黒のパンツスーツのスタイルである。
顔を見て、安藤は息を呑んだ。
「初……さん?」
「……? フリーライターの園田初音です。よろしくお願いします」
初音は名刺を差し出しながら、小首を傾げた。
あの世界で見た初に瓜二つである。
安藤も慌てて名刺を差し出す。
弓子が安藤の名刺を指で挟んで受け取った。
「今日は初音ちゃんのインタビューが入ってたから……いきなり来られても困るのよ」
久世弓子は当然のように上座の椅子に座り、足を組んだ。
初音は安藤のちょうど真向かいの席に座る。
弓子と園田初音との関係性は説明が無かったので想像するしかない。
親しげなのでビジネス上だけの付き合いというわけではなさそうだ。
かといって娘、と思って良いほど馴れ馴れしくもない。
「あ……あの」
二人のご関係は、と安藤は尋ねようとした。
「早瀬篤子さんの件、でしたよね」
初音がハッキリした口調で口火を切った。
「私たちも……篤子さんが、今、どうされているか、詳しく知ることが出来なかったのです」
初音は弓子と一旦、視線を合わせる。
初音も弓子も、篤子の携帯電話やメールに何度も連絡をしたが……どちらも通じなかったそうだ。
「篤子さんには一時期、私たちと一緒に仕事をしていただいてました」
初音は安藤の目を真っ直ぐ見て話す。
「仕事……というのは?」
「それをお応えする前に……申し訳ないですけど、安藤……先生? 今日、貴方が何のためにレディ・ユミコを訪ねたのか教えてもらっても良いですか?」
長い話になった。
きっと、信用してくれないだろうとは思った。
でも……弓子にも、初音にも本当のところを話さなければならないと。
真実を話さなければ、前には進めないと。
そんな予感がしていたから、安藤は全てを話した。
ゲーム内で起こったこと。
ゲーム内にいると、それが現実世界だと確かに感じること。
もしかしたら、ゲームなのではなく、多次元……所謂、マルチバースの可能性があること。
また、あの世界は現実世界と密接にリンクしていて、あの世界に居れば……篤子の病状は不思議と進まないこと。
「時間が……無いんです」
安藤は二人の表情を確認しながら訴える。
「篤子さんが家族の元に無事に帰ってこられるかどうか……時間が無いんです。だから、無茶を承知で突然押しかけたりしたんです」
「……」
長い沈黙が続いた。
初音は戸惑ったように、自分の手元と、弓子と安藤の顔に視線を移すのを繰り返していた。
「篤子の……病気の原因は、私かもしれないわ」
弓子がポツリと言った。
「そんなことありません! レディ・ユミコ!」
初音が即座に否定する。
「私が……あの子を働かせ過ぎたから」
篤子とのテレビ通話はいつでも繋がったという。
「時差もあっただろうに……篤子に負担を掛けていたのね。篤子の身体は悲鳴を上げていたのに……」
「いえ……篤子さんの病気は……誰の責任でも無いと思います。
詳しいことは全く分からないのに、口を出して申し訳ないですが……少なくとも弓子夫人のせいでは無いと思います」
忙しかったのは確かだろうが、病気との因果関係があるとは言えない。
ましてや……弓子夫人は仕事を依頼していただけで、直接の上司であったわけではない。
「日本政府との守秘義務があって全ては話せないのだけれど……とある国の戦地に取り残された子どもたちを救う仕事に助力してもらってたの」
弓子はそのNPO法人(特定非営利活動法人)の代表だという。
「すみません……実は事前にご家族に許可を取って、篤子さんとのメールを確認させてもらってます」
安藤は、知らなかったと嘘を付くわけにはいかない。
弓子によると、現地では報道されているよりもロシア語のみを話す住民は少なかったが、それでもロシア語の通訳は必須だった。
「ロシア語しか話せない子どもが僅かにいたから……」
侵略はロシア語話者を救うという名目の元に行われた。
「私には個人的な事情があって……すぐに外務省の長谷川さんに連絡を取って……なにしろ、戦争が始まったばかりだから、情報が錯綜して……その時に、ロシア語の通訳を頼んだのが篤子だったの」
弓子夫人の個人的な事情は……差し迫っており、事態は相当に緊迫した状況だったという。
「その……安藤さん。貴方には申し訳ないけど、戦国時代? の話は私にはよく分からない。
ただ篤子の現在の様子がマズイことだけは分かったわ」
篤子は今も病と闘っているものの、比較的苦しみのない状態で眠っている。
但し、医者の説明によるとこのままでは時間の問題だそうだ。
「言ってよいか……迷ったのですが……」
安藤は意を決したように、弓子の顔を見つめた。
「篤子さんは。旧姓、織田篤子さんは……イヴァン・レフチェンコ氏の実の娘さんです」
空間が引き裂かれたような衝撃が室内を覆った。
「そんな! レディ・ユミコに失礼だと思わないの??」
初音がまるで悲鳴のような口調で安藤に詰め寄る。
「いいのよ……初音」
弓子は初音を細い指で制したが、その目は驚きで見開かれている。
「……実は……あの人には、私の他にも誰かいるのだろう、という予感はしてました」
弓子は、見開いた目をゆっくりと伏せた。
「……女の勘、なんでしょうね。あの人は、若い頃から本当に女好きでいい加減な人だったから……ウチの父親は私との結婚の前には随分と整理のために奔走したみたいよ」
弓子は額に両手の指を添えて抑える。
暫し下を向く。
「……バカだったわね……我ながら。子どもまで作ってたなんて……あの恥知らず」
彼女は顔を上げると夫を罵った。
「……あの時は……運命の王子様だと思ってた。マサチューセッツの飛び級の天才、東大の鳴り物入り留学生……日本人の小さなバカな女の子は、まるで世間知らずのお姫様みたいに騙されちゃったわけ」
自虐的にそう言って、何でもないことのように微笑んだ。
「その……篤子の母親は、元気なの?」
「ええ。お元気そうでした」
「そう……あの人が不幸にした女が、私の他にも確かにいたのね」
弓子はその頬に柔らかな笑みを湛える。
「……残酷ね」
長い睫が伏せられ、独り言のように言葉が紡ぎ出された。
「運命って残酷ね。たまに運命を呪いたくなるわ。貴方もそう思わない?」
「……」
「篤子が……あの人の娘……! あの人の……そうだったなんて」
震える手で弓子は口元を覆う。
「僕は運命を呪いません」
安藤は、弓子にショックを与えたいわけではない。
けれども――どうしても篤子を救うには弓子の協力が不可欠だろう、との予感があった。
一緒に真実を知ってもらわねばならない。
「すみません……でも、だからと言って運命の思い通りにはさせない。
僕は運命を切り開いて、立ち向かいます」
弓子に、初音にも、自分の決意を語らなければならない。
「だから……運命を呪いません」
今、諦めるわけにはいかないのだ。
「……貴方と同じ目を持った人に会ったわ。少し前に」
弓子は自らの手をグッと握りしめて、安藤に向かい合う。
「そう言えば……篤子を連れてきたのも、その人だった。忘れないわ。あの人の目……一生、忘れてはいけない人……私が一生、十字架を背負わなきゃならない人……」
「それは……もしかして……杉山光男……ですか?」
「あれ? 杉山くんのこともご存知?」
安藤は大きく頷いた。
「そうか! そうだったんだ! 貴女と早瀬篤子さんを結び付けたのは杉山光男!
そうか! 杉山だったんだ!」
点と線が繋がって、大いなるウネリとなり安藤の眼前に突きつけられる。
ひとつひとつの出来事がまるで蔓を張るように重なり合い、絡み合い、覆い被さって真実を外から見えなくしている。
それをただただあるべき姿に――自分が戻していくのだ。
安藤は心の奥から湧き上がる衝動を静かに抑えていた。




