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第166話 全体練習には出ない!

 その日、第九の全体練習のために大垣城の大広間に入り切れぬほどの東西の兵士たちが集った。


 広間の中央に白い布を被った物体が置かれている。


 白い布が引かれて、黒田家の開発よる手回しの蓄音機がはじめて姿を現した。


 黒田長政が何かの儀式のように恭しくカラヤンのレコードをかける。


 指揮はヘルベルト・フォン・カラヤン。


 演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。


 曲目は交響曲第九番「合唱」……1977年、東京・普門館での演奏である。


 家臣のひとりが手回しのハンドルを回した。


 長政は歌うために歌詞カードを手に位置についた。


 ふと隣の男に視線をやる。


「業の深いことで……」


 長政の呟きに、隣の男が左目だけの視線を合わせてニッコリ笑った。


 右頬から顎にかけての火傷の痕《あと》が痛々しい。


 口元からニッと歯がこぼれる。


「いや……貴方のことじゃありませんよ。安心してください」


 長政は歌詞カードに視線を移した。


 歌うために息を思いっきり吸った。



《O Freunde, nicht diese Töne! Sondern laßt uns angenehmere anstimmen und freudenvollere.

おお友よ、このような旋律ではない! もっと心地よいものを歌おうではないか 、もっと喜びに満ち溢れるものを》



  ◇



 刻、同じ頃――右目に黒の眼帯、右頬から顎にかけての火傷の痕が痛々しい。


 体躯は痩身。


 黒く薄汚れた着流し姿。


 やや猫背だが眼光鋭く、古豪《こごう》の剣士といった風情である。


「腕は確かかと」


 井伊直政の耳に家臣が囁いた。


 名を十佐。


 以前、首切り場で長く働いていた者だという。


「苦しまずに逝かせられるか?」


 直政は尋ねる。


「……御意」


 眼帯の男は嗄《しゃが》れた低い声で頷く。


 その痩せた背中には殺気を纏《まと》っている。


 直政としては、普段ならあまり近寄りたくは無い相手だ。


「頼んだぞ」


 短く声をかけて直政は刑場の中央へ歩いた。


 大垣城での『歓喜の歌』全体練習の同(・)時(・)刻(・)。


――清州城では刑の執行の未の刻が迫っていた。



《Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium Wir betreten feuertrunken. Himmlische, dein Heiligtum!

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ 天上楽園の乙女よ、我々は火のように酔いしれて、崇高なる者よ、汝の聖所に入る、汝が魔力は再び結び合わせる》



 白い装束を着た大谷刑部が引き出される。


 召集された大勢の見物客が固唾《かたず》を飲んでそれを見守る。


「痛いのはイヤなのだ……斬首でいい」


 昨日の夜になって、大谷から直政にそう伝えられた。


 大谷刑部は斬首。


 この重い事実が直政に否応なしに迫ってくる。


「相分かった」


 大谷の清々しい姿に、直政は危うく何もできない自分を呪うところだった。



《Was die Mode streng geteilt; Alle Menschen werden Brüder,

時流が強く切り離したものを すべての人々は兄弟となる》



 引き出される際には、斬首なので縄で手首と胴を縛っている。


 どこからともなく悲鳴が上がった。


 誰もが、この光り輝くような男の首が落とされるのを信じられない面持ちで見ている。


 直政は手を握りしめて、自分を鼓舞する。


「大谷刑部! 言い残すことは無いか?」


 昨日の夜も、辞世の句があるかと尋ねたら、大谷はそんなものはないと笑った。


 看守に尋ねると、紙と筆を渡すと大谷は寝転がりながら考えてはいたそうだが途中で止めたらしい。


 こちらももう既に前にやった、と。



《Wo dein sanfter Flügel weilt. Wem der große Wurf gelungen, Eines Freundes Freund zu sein,

汝の柔らかな翼が留まる所で、ひとりの友の友となるという、大きな成功を勝ち取った者》



 刑場はグルリと竹柵で覆われている。


 隙間から見物客が一目見ようと押し寄せている。


 突風に舞い上げられた砂ぼこりが時折、彼らにひどく覆いかぶさっていた。


「刑部さまーーー!」


 声がかかった。


 口々にみな、刑部の名前を言った。


 中には祈りを捧げている者もいる。


「良かった……」


 直政は何故か安堵《あんど》する。


 死にゆく大谷を罵倒する声が無いことに安堵する。


 何故《なにゆえ》?


 何故……安堵するのだ。


 敵方である自分が。



《Ja, wer auch nur eine Seele Sein nennt auf dem Erdenrund!

そうだ、地球上にただ一人だけでも、心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ》



 首切り人が姿を現した。


 黒の古ぼけた着流し姿で、長く伸びた髪は酷く乱雑に結んである。


 身なりなどどうでも良い。


 腕さえ確かならば。


 直政は首切り人を見た。


 殺気が全身を漲っている。


(きっと、コイツは人を殺すことが堪らなく好きなのだ……)


 首切り人に対する嫌悪感が胃の中から膨れ上がる。


 大谷の首を落としたら、もしかしたらこの首切り人を斬って捨ててしまうかもしれない。


 直政は何故か怒りを覚えた。


 大谷は従容《しょうよう》として首を斬りやすいように差し出す。


 またしても観客から悲鳴が上がった。



《Alle Guten, alle Bösen Folgen ihrer Rosenspur. Küsse gab sie uns und Reben, Einen Freund, geprüft im Tod;

すべての善人もすべての悪人も、自然がつけた薔薇の路をたどる、自然は口づけと葡萄の木と、死の試練を受けた友を与えてくれた》



 首切り人は介錯刀に水を掛け流した。


 刀の鍔の部分から剣先に沿ってニョキニョキと生えてきた木の蔓《つる》のようなものを事もなげに払った。


 首切り人はその際、一切の動揺も見せ無かった。


 刀を高く構える。


 大谷刑部は静かに笑みを浮かべている。


 ひとこと、言った。


「治部……地獄で会おう」



《Laufet, Brüder, eure Bahn, Freudig, wie ein Held zum Siegen.

兄弟よ、自らの道を進め 英雄が勝利を目指すように喜ばしく》



「ここが地獄の一丁目だぞ!! 刑部!」


 首切り人は素早く大谷の胴と手首の縄を切った。


 竹柵が外され三頭の馬が駆け抜けてくる。


 その内の一頭はかの『三国黒』であることを直政は確認した。


 首切り人は追おうとした直政の顔に、眼帯と肌色のゴム状のものを顔から剥《は》がして投げつける。


 眼帯を投げつけた石田三成は島左近の乗った三国黒に身体ごと攫われる。


(く・た・ば・れ)


 三成がそう口を動かしながら、キッチリとこちらに向けて中指を立てたのを直政はスローモーションで見た。


 同時に馬上の小西行長が大谷刑部の肩を掴んで、率いてきたもう一頭の馬に器用に乗せた。


 小西行長の後ろには木下頼継が振り落とされないようにシッカリとしがみついている。


「マジか?!!」


 直政は慌てて、城門を閉じるよう指示する。 が、呆気にとられて誰も動く者がいない。


「追えーーー! 何をしている? 早く追えーーー!!」


 三頭が駆け抜けて行った後、城門に姿を現した武士が居た。


「どうも、どうも、皆様お揃いで」


 頭には太く白い鉢巻きを巻いている。


 右手に大太刀《おおたち》と左手に小太刀《こたち》を手にした宮本武蔵である。


「ここより先……進む者があるならば、俺とまずは勝負しよう。逃げるのであれば武門の恥……のうのうと余生を生きてはおられますまい」


 武蔵は二刀を構えて腰を落とした。


「さぁさ、お立ち会い! いざ勝負!」


「ひ、火縄銃を!」


 直政の部下が叫ぶ。


「待て! それこそ武門の恥じゃ!」


 直政が慌てて制する。


 誰も勝負には出ない。


「ふん……腰抜けばかりじゃのう。じゃあな。さらばじゃ」


 堂々と馬を引いてきた男は松平忠吉である。


 誰もが手出し出来ない。


 手綱を渡された武蔵はサッと跨って、馬上から悠然と周囲を見渡した後、先に逃げた一行の後を追った。



《Seid umschlungen, Millionen!! Diesen Kuß der ganzen Welt!

抱き合おう、諸人よ! この口づけを全世界に!》



「ハハハハ」


 直政の口から乾いた笑いが漏れた。


 ほんの五分ほどの出来事である。


 奴等はそれこそ、用意周到に計画を詰めて、大谷刑部を救い出した。


 本多忠勝、松平忠吉が協力したのは間違いない。


 家康が知れば……二人とも無傷ではいられないだろう。


 なのに……。


「やった。やりおったわ」


 直政はその場から動けずに暫し立ち尽くした。



《Ihr stürzt nieder, Millionen? Ahnest du den Schöpfer, Welt? Such' ihn über'm Sternenzelt! Über Sternen muß er wohnen.

ひざまづくか、諸人よ? 創造主を感じるか、世界中の者どもよ、星空の上に神を求めよ、星の彼方に必ず神は住みたもう》




※歌詞出典:第九『歓喜の歌』Wikipediaより

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