第161話 予感しかない!
東京會舘のほど近くにあるビルはキラキラと日の光がガラス窓に当たって綺麗だ。
昼休み。
丸の内の会社員が一斉に吐き出されて、師走の街を白い息を吐きながら忙しなく足早に移動している。
安藤は、一角に古いが見るからに重厚感のあるビルの玄関前に立ち尽くした。
ビルの案内板には、『クゼ薬品日比谷第二ビル』と記載がある。
久世・レフチェンコ・弓子は『株式会社クゼ薬品工業』の取締役に名を連ねている。
安藤が、この久世弓子の名前を知ったのは偶然だった。
早瀬直希が見せてくれた、篤子が書いた何通かのメールの宛先の中に名前があったからだ。
物理学者イヴァン・レフチェンコの妻であり、日本でも有数の製薬会社の令嬢。
60代でも現役バリバリのキャリアを誇るキャリアウーマンでもある。
安藤は今まであまり興味が無かったがビジネス雑誌にもインタビューが掲載され、婦人系雑誌にも華やかなスーツ姿の写真と共に、生き方や考え方の特集がなされていた。
真美子は当然、名前を知っていた。
有名人なのだ。
そんな久世弓子と早瀬篤子は仕事上、メールを送り合う仲だった。
その事実に気がついた時は鳥肌が立ったものだ……。
なぜなら、イヴァン・レフチェンコは早瀬篤子の実の父親なのである。
そしてその事実を……当の久世弓子は知らないだろう。
もちろん、早瀬篤子も。
安藤は冬だというのに、手に汗を握ってクゼ薬品工業の受付に向かった。
綺麗に折り畳んだはずのコートが腕からすり抜けそうだ。
慌てて滑らないようにコートを掴んで、受付の女性に声をかける。
「突然で申し訳ありません。御社の取締役の久世弓子さんとお会いしたいのですが……」
「今はすべてのアポイントや取材はお断りしております」
受付の女性はピシャリと無機質に応えた。
それもそのはずである。
ほんの一週間前までイヴァン・レフチェンコはノーベル物理学賞を受賞後、弓子夫人とストックホルムで開催された晩餐会に出席していた。
テレビでも頻繁にその様子が放送され、レフチェンコ氏は日本でちょっとしたブームになっている。
特に今までノーベル賞に興味の無かったような人までにまで「親日家であること」「俳優のような容貌」であるということで名が知られ、ちょうどマスコミに見つかってスターのような扱いをされている。
「可愛い」と言ってレフチェンコ氏のファンを自称する若い女の子まで登場し、彼の写真を翳してワイドショーでインタビューを受けている姿が放送された。
妻である弓子夫人がストックホルムから日本に戻ってきた頃合いを狙って安藤は再び東京に出てきたが。
今回は残念ながら空振りに終わる可能性が高まっている。
「お願いします。早瀬篤子さんの件で、どうしてもお話したいことがあります」
安藤はそれでも、なんとか食い下がる。
「はぁ……」
受付の女性は目力が強い、というよりも強すぎて睨んでくるように見える。
キッと真横に引かれた唇が彼女の警戒心を現している。
「申し訳ございません。今はどなたともアポイント、取材はお断りするよう、申し使っておりますので」
けんもほろろである。
電話が鳴って、受付の女性はもう別の電話に対応している。
こちらを見ようともしてくれない。
安藤は途方に暮れて、自動ドアに向かった。
その時だった。
外の大通りにピカピカの黒塗りの車が横付けされ、真っ白なスーツ姿の女性が降りてきた。
黒の大きなツバのある帽子と、濃い茶色のサングラスをしている。
「弓子夫人ですね!?」
安藤は思わず声をかけた。
弓子は安藤の方に目線を寄越すことなく、数段の階段を登る。
「弓子夫人!! ちょっとお話があります」
安藤が近づくと、慌てて青い制服を着た警備員が割って入った。
「弓子夫人!! 僕は安藤幹夫と申します!! 早瀬篤子さんの件で!!」
弓子の黒のピンヒールはそのまま止まることなく、ビルの自動ドアに吸い込まれて行った。
安藤は呆然とその姿を見送る。
そして、高いビルを見上げる。
無力感に苛まれながら……クゼ薬品第二ビルにクルリと背中を向けた。
「何も……出来なかった」
安藤は独りごちた。
真相に辿り着く前に……手痛いロスである。
タイミングが少し違えば、弓子夫人にもう少し容易に接触できたかもしれない。
でも、居ても立ってもいられなかった。
早瀬篤子にはもう時間が無いのだ。
「ちょっと、貴方……」
階段を降りきったところで、低く落ち着いた声が安藤の背中にかかる。
振り返ると久世弓子が帽子とサングラスを外して立っていた。
小柄だが、テレビで見た和装姿よりずっと若く見える。
60代と聞いていたが……肌のハリはまるで女優のような美しさである。
「貴方……今、早瀬篤子って言った?」
心臓が止まるかと思った。
「はい! 早瀬篤子さんの件で、どうしても弓子夫人とお話がしたくて!」
弓子はジィっと安藤の顔を見つめた。
アイラインが太めに引かれて、クリっとした好奇心いっぱいの黒目が外の陽を受けて光っている。
安藤は弓子の無遠慮とも言える眼差しにドギマギする。
「ついてきてちょうだい」
弓子はニコリともせず、ヒールを返して階段を再び登る。
安藤は慌てて弓子の後を追った。
警備員も、受付の女性もこちらに気がついて唖然とした表情を浮かべている。
――もしかしたら、この出来事の新しい局面が見えてくるかもしれない。
ピカピカに磨かれた床を歩きながら、安藤の全身にまだ「確信」とも言えない「予感」だけが駆け巡った。




