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第151話 瞳に囚われない!

「店の外でガイジンの男の子、寝てるけど!」


 眉間にシワを寄せて入って来たのはキャバレーのホステスである。


 まだピンクのカーラーを巻いたまま、タバコに火をつける。


 君枝……芸名は愛子である。


 愛子はズッシリと重い扉を押して店を出た。


 外の冷たい空気が頬に触れる。


 1981年の年明け。


 紫の看板『キャバレー グランドハット』の下に金髪の外国人が寝ていた。


「なぁに? 酔っぱらい?」


 外はまだ明るい。


 またホステスの一人が派手な口紅を塗りたくりながら店に入ろうとしている。


「困ったわね」


 愛子は苦笑する。


「ええ! 可愛いじゃん!」


 ホステスのお姉さんは外国人の顔を見て笑いながら店に入って行った。


「起きて! ここ、邪魔だから」


 外国人はなにやら言葉にならない言葉を言って身を縮めた。


 愛子は躊躇したが、肩を揺さぶる。


 外は真冬である。


 このままここで寝られると若いとはいえ少し心配だ。


 愛子は外国人のあどけない表情を見た。


 たぶん……歳下。


「どうした?」


 店の中から顔を出したのは支配人の間宮である。


 痩せぎすで歳は三十代半ば……ポマードをべったりつけている。


「ほっとけよ」


 間宮は酔っぱらいには慣れている。


「ほっとけないわよ。店で休ませてあげてよ」


 間宮は少し屈んで愛子の耳元に唇を近づけた。


「優しいな……愛子が踊り子になってくれたら考えるかな」


 愛子は売れない歌手である。


 洋楽好きの父親の影響で、シャンソンやボサノバなどをピアノ伴奏で歌う。


 キャバレーに来る客はあまり歌を聴いていない。


 ただ店の雰囲気に愛子が合っているので、間宮が気に入って置いてくれている。


 そんなこんなで愛子は若く見えるがもう26歳になっていた。


 銀座に残るキャバレーも既に数軒。


 キャバレー人気は一気に下り坂を迎えていた。


 カタギにならなければならない。


 浜松の実家の両親に、そろそろ諦めて帰るように言われている。


 愛子がリハーサルでピアノ伴奏の吉田と合わせている時、店の隅のソファーで寝ていた金髪がムクリと起き上がった。


 ぼんやりした表情のまま、宙を見ている。


 結局、間宮と店のボーイが苦労しながら大柄な彼を運んでくれた。


 起き上がった姿は想像よりも大きい。


 180センチ以上ありそうだ。


 愛子と目線があった。


 愛子は慌てて視線を逸らして伴奏の吉田に視線を送る。


 曲は『ラ・ボエーム』である。


 リハーサルの間……彼の目線はずっと愛子の顔を捉えていた。


 だからというべきか……愛子の方も彼を見る。


 彼はジィっと、愛子の姿を追う。


 愛子はぼんやりと考える。


 早く実家に帰るべきである。


 見合い写真を手に母は首を長くして待っているはずだ。


 地元の友達はみんな結婚してサラリーマンの旦那さんと可愛い子どもがいる。


 学生時代に付き合っていた人がじっと愛子の帰りを待っているとも聞く。


 何も……東京で苦労する必要はない。


 ましてや……男の絡みつくような視線に囚われる必要は無い。


 でも、既に男は愛子の目の前に来ていた。


 伴奏の吉田が手を止める。


 目の前の男の青い瞳を見たとき、愛子は歌うのを止めた。


 愛子はきっとこの人と生きていくのだ、とこの時、感じた。



  ◇



「今だったら、ハーフタレント、なんて言って持て囃されるけど、あの頃はまだまだ。

 おまけに父親がいないもんだから……篤子はイジメられてね」


 男の名前はイヴァン・レフチェンコ。


 ロシア系アメリカ人で、東京大学に通う留学生だった。


 既に交際相手がいることは後で知った。


 交際相手は日本の大手製薬会社の一人娘だった。


 君枝のお腹には既に篤子がいた。


 父に勘当されて浜松の実家には戻ることは出来なかった。


「あんた、とびきり美人なんだからイジメっ子なんて見返してやりなさいよってね。

 やり返してやればいいのにって……あの子は気持ちが優しいからね。

 そんな言葉……望んでなかったのよね」


 私生児として生まれた篤子は目立つ容貌からどこにいってもイジメられた。


「そっと抱きしめて、ヨシヨシっての求めてたのよね。でも……あたしはそんな弱い子に育ってほしく無かったのよね。

 だから、ほっといてた。あの子が立ち上がるのを」


 君枝はタバコを咥えた。


「やっぱ、あたしの子だわ。あの子は見事に立ち上がって、自分で大学受けて自分で学んで就職もした。

 大学決めてきちゃうから、こっちは学費稼ぐのに必死よ」


 君枝は当時を思い出したのか、苦笑いを浮かべる。


「スナックに加えて、カラオケ教室もやって、昼間も喫茶店やって……こうやって働き詰め! 草臥《くたび》れたわよ」


 君枝は自らの細い肩を左手で抱いた。


 タバコの煙がスゥッと舞っている。


「ほんと……もう草臥れたわよ」


 誰にともなく、呟く。


「あの子はあの子の、きっと言い分があると思う。

 あたしに言いたいこと……たくさん抱えたままオトナになったんだと思う」


 君枝は数度頷いた。


「あたしは、あたしなりにあの子を愛して、大事に大事に育てたつもり。

 他人にとやかく言われる筋合いは無いわよ」


 君枝はタバコの灰を灰皿に落とした。


「確かに、男の人に頼ったこともある。 ある日、男がね……篤子の風呂を覗いたのよ。

 まだ篤子は十四、五くらいだったかな……あたし、頭に来てその男に日本刀突きつけてね……二度とウチの敷居を跨ぐんじゃないって、追い返したっけ。

 あの子……泣いてて。裸で泣きながらあたしに縋り付いて」


 安藤は隣の真美子の表情を窺い見た。


 真美子の目に薄っすらと涙が滲んでいる。


「それ以来、男をウチに入れたことは無いのよ。あの子は疑うけど、本当。本当のことなのよ」


 君枝の表情は真剣だった。


「あの子に会えたら伝えて……お母さんは大事に思ってるって」


「ご自身で伝えたらいかがですか? 病室に付き添ってあげたら」


 真美子の尖った声は少し震えている。


「せめて、会いに行ってあげたら、もしかしたら篤子さんは目を覚ますかも……お母さんを待ってるのかもしれないですよね」


 真美子の言葉の語尾がうわずった。


「あんた……何にも知らないのにいい加減なこと言わないでよ」


 君枝の信頼を無くしたのは明らかだった。


 君枝はタバコを灰皿に押し付けてクシャクシャにする。


「出てってよ」


「すみませんでした……」


 安藤が慌てて謝罪した。


「出てって! 二度と来ないで!」


 安藤が慌てて二千円をカウンターに置く。


 安藤と真美子が追い出されると、君枝はすっと防音ガラスのブラインドを閉めた。


 もう中を伺い知ることはできない。


 真美子は既にスタスタと駅までの道を歩き出していた。


 安藤は小走りでその後を追う。


 帰りの新幹線で真美子は思い詰めた様子で安藤に言った。


「あんなに綺麗な子なのだから……一つ屋根の下に男性を入れたら、そうなることくらい分かったはず」


 真美子の長い睫毛から涙が零れ落ちそうで怖い。


「男だったら……みな、そうなると言うのは異議があります。

 僕だったら、絶対に子どもにそんなことしない自信ありますよ」


 子どもを連れた母親と結婚を決意するには、それ相応の覚悟が必要だ。


 その子どもまるごと、愛して護っていく覚悟。


 世の中の苦しみからひたすら護っていくという覚悟。


「その男の人が悪かったんです。お母さんを責めても、どうしようもないでしょ?」


「私は……私は、篤子さんが傷ついたってことを言いたかったの!」


 真美子の瞳からとうとう涙は溢れてしまった。


 白いレースのハンカチを目元に充てる。


 彼女はそのままハンカチを握りしめた。


「きっと、お母さんは充分分かってるんじゃないかな……だから僕らにそんな話をしたんですよ」


 何も話すつもりのなかった女性が……見ず知らずの二人に誰にも言えない想いを語ったのだ。


「きっと、篤子さんを想う気持ちは誰よりも強いんだ……僕は、そう思います」


 安藤は暗くなった車窓に映る自らの顔を見つめた。

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