第146話 明かしたことはない!
『次のニュースです。
先ほど、今年度のノーベル賞受賞者恒例の晩餐会が開催され、日本とも親交の深いイヴァン・レフチェンコ氏が奥様の弓子さんと共に姿を現しました!
ノーベル物理学賞を受賞、アメリカ国籍を持つイヴァン・レフチェンコ氏は今年で65歳。
宇宙物理学の権威でデンマークのコペンハーゲン修学院大学で教鞭を取る傍ら、ビッグリップ理論に基づくダークマター、ダークエネルギーの研究で知られています。
昨年は奥様の弓子さんと来日し、日本のテレビインタビューにも応えておられました。
その時の独占映像を……』
喫茶店のママはカウンターの上に乗った黒いリモコンを取ってパチンとテレビを消した。
テレビを見上げる表情は派手な化粧とはチグハグな……複雑な瞳の色をしている。
「じゃ、ママ! また夜に来るね」
サラリーマン風の客がままに声をかけた。
「はーい! 待ってまーす」
店の外に出ていた小さな看板によると、夜はカラオケスナックに早変わりするようだ。
安藤と真美子は最後の客が出ると、すぐさまカウンターの席に移動した。
歳は70歳くらいなのだろうか。
明るいイエローのセーターが似合っている。
昔はしっとりとした美人だったろう。
愁いを帯びた目元が妙に色っぽい。
「おかわり、飲まれますか?」
ママはコーヒーのおかわりを勧めてくる。
明るい髪色を編み込んで美しく束ねてアップにしている。
「ご夫婦? ここらへんにお住まいですか?」
安藤と真美子の顔を交互に見て、微笑んだ。
「織田篤子さんのお母様ですか?」
安藤が言葉を発した瞬間、篤子の母親の目は鋭くなる。
織田君枝は篤子の母親。
横浜の鶴見区で喫茶店兼カラオケスナックを切盛りしている、という情報を早瀬直希から掴んでいた。
「あんたら、何よ……あの子に何か言われたの?」
急に剣呑になった口調に安藤は驚く。
「な、何も。お話を少し伺いたくて」
「何? 同級生? 中学とか? あたし、あの子とはあんまり会ってないから、知らないのよ」
君枝は忙しなく、グラスを拭き始める。
グラスを戻してカウンターを出て、今度は雑誌や新聞の整理をはじめた。
「いえ、違います。お孫さんの、直希君の担任です」
君枝は驚いて安藤を振り返る。
実際は直希のクラスの担任ではないが、話がややこしくなるので安藤と真美子はそう名乗ることに決めていた。
「ナオ君の……そう? あの子、元気でやってますか? 岐阜から?」
孫の話となると止まらない。
カウンターに戻って安藤と真美子に直希のことを聞いて学校生活を知りたがった。
「直希くんは学業は優秀ですし、お友達が多い、というわけではありませんが、優しくて頼りになると、周りからの評判ですよ」
早瀬直希は、学業では学年でも模試のトップを争うほどに優秀である。
数ヶ月前の試験では学年四位くらい……それでもトップファイブには名を連ねている。
「ひとりっきゃいないんだもん。しかもとびきり可愛い子でね。
おばあちゃん、似顔絵描いたよ〜とか、おばあちゃん、そのスカーフ似合ってるね〜とか」
幼い直希の写真を携帯電話の待ち受けにしている。
愛おしそうに君枝は画面の直希の顔を撫でた。
「本当に可愛い子。あの子に会えたことだけでも、あたしの人生、めっけもんよ」
君枝の表情は穏やかで優しい祖母そのものである。
切れ長の目元の眦が優しく垂れる。
「篤子さんとは……ご入院される前は会っていらっしゃったのですか?」
真美子が口を開いた。
ハッキリした口調だった。
「……会いましたよ」
君枝は携帯を猫とポットの刺繍の描かれたエプロンに戻した。
「入院のことは旦那さんの治さんが知らせてくれてね。 穏やかなイイ旦那さん!
あたしも入院前には篤子に会いに行って、入院の手伝いとかしたわよ」
君枝は自分のマグカップにコーヒーを注いだ。
マグカップから香ばしい湯気が立つ。
「篤子に聞いてるかもだけど……あたしと篤子はウマが合わなくてね。あの子とはケンカばかり。何でだろう……あたしがキツイのかしらね」
君枝はカウンターの中の椅子に腰掛けて、テレビのリモコンを翳した。
引き続き晩餐会の様子がテレビ画面に映し出される。
「でも、キツくなかったらあの子を背負って生きていけなかったからね……」
君枝のテレビを見る目が光る。
なぜか分からないが安藤は振り返ってテレビ画面を注視した。
――イヴァン・レフチェンコ。物理学者。
いつぞや、村山宣之からもらった新聞の紙面にインタビューが掲載されていた。
普段だったら、文学賞以外は興味の無かったはずなのに、目が釘付けになって、村山から記事を渡されたのだったっけ。
安藤は不思議に思いながら、画面に見入る。
大柄なタキシード姿の金髪の男性が、小柄なイブニングドレスの黒髪女性をリードしている。
男性はハリウッドスターみたいだ。
「マッツ・ミケルセンみたい」
横で真美子がウットリとして言った。
その後、ノーベル化学賞を受賞した日本人に画面が切り替わる。
「篤子さんのお父さんのこと、知りたいです」
なぜそんなことを唐突に口にしたのか分からない。
安藤の言葉に君枝は表情を固くする。
「篤子さんのお父さんは……外国の方ですよね。どんな方なんですか?」
「なんでよ?」
君枝は安藤を睨んだ。
「あんたに関係ないでしょ」
隣の真美子に右腕を肘で突かれる。
打ち合わせに無かった質問をしてしまった。
「何しに来たの?」
君枝は再びグラスを拭いた。
「お金落とさないなら、さっさと出てってちょうだい。常連さんになる気配もなさそうだし……」
暫しの気まずい沈黙が狭い店内を覆った。
真美子が安藤の顔を見て退出を促す。
安藤は財布を取り出した。
「ノーベル物理学賞だって」
君枝がポツリと言った。
「は?」
安藤がとぼけた声を上げる。
「今、テレビでやってたでしょう? どっかでどうにかして知って押しかけて来たのかと思った。 夫婦に見えなかったし週刊誌の記者かなって……」
テレビの中の話題は既に今期スタートするドラマの番宣に移っている。
賑やかなタレントたちの様子が映し出される。
君枝はこめかみを押さえた。
ゆっくりと確実に視線を上げて安藤の顔を捉える。
人を真っ直ぐに凝視する視線は茶々によく似ている。
「ノーベル賞なんて……雲の上すぎて……どんだけ凄いのか、本当によく分からないわよね」
君枝はふと口元に笑みを浮かべた。
笑みは上手くはいかずに、口角を歪めただけになる。
「篤子に聞いても、ナオ君に聞いても、知らないわよ。
あたしだけ……あたししか知らない。 なぜ、あんたがたに話すのかしら。
今、話さないとって思うのは何故なのかしら」
目を伏せて話す様子は、まるで独り言である。
君枝は震える指先で口元を抑えた。
「本当にあたしだけ……あの子の父親のことを知ってるのは。誰にも……話したことは無いの」
君枝の瞳は思い詰めて、不安げだった。
君枝の目線が窓の外を捉える。
窓越しの光が写って瞳の虹彩を揺らす。
自転車に乗った人が窓の外を通り過ぎて行った。
「あの時……あの子の父親はまだ二十歳になったばかりの学生だった」




