第12話 会議は踊らない!②
「まずは、宇喜多中納言様、長束大蔵大輔殿、島左近殿、お越しいただきありがとう。
いまだかつてないこの危機を乗り切るため、はるばる清洲にご参集いただいたことに感謝申し上げます」
黒田長政が独特のダミ声が響かせた。
「今回、なぜ我々が西軍とのこのような戦後処理の条件確認作業を敢えて『和議』と表現させていただいたのか。
このことからも我々の思想が伝わっているかと思います」
長政はまるで戦国大名というよりは辣腕を振るう営業マンか政治家のような口ぶりである。
「『停戦』ではなく『終戦』。我々東軍……いわば東照大権現たる徳川家康率いる東軍が勝ち負けに拘らず、この世界の平和を望み、ひいては西軍の方々の心の安寧をも望む。
このことがこの会議の一番重要な目的であり、その思想を西軍の代表のみなさまとも共有したい。ご賛同いただけますでしょうか?」
気圧された形の秀家と正家は顔を見合わせる。
「はぁ……はい」
正家が蚊の泣いたような声で返事をした。
「良かったぁ!」
長政は揉み手をして相好を崩した。
顔の皺が増し、若いはずの長政が少し年嵩に見える。
「図書! 今のキッチリ書いておいてね」
長政が振り返った先の書記は英邁で知られる伊奈図書であった。
「はい」
図書は長政をしっかり見つめて返答を返す。
「では、さっそくまず第一の議題から……領土問題ですね!」
「それについてですが、こちらは……」
正家が口を出そうとする。
「いやいや、まずは我々からご提案という形で。僭越ながら、あなたがた西軍が仮住まいとしている大垣城より南西の地域は既に調査させていただきました」
「え?」
「はい。なので佐和山が無いことも、その先は断崖絶壁の海になっていることも調査済みです」
「……それは、かなり僭越ですねぇ」
秀家が不満を鳴らす。
「いやいや! 申し訳ありません。ただ和議をまとめたい一心で、出来うる限り両軍が置かれた状況を調査したまでのこと。
ご無礼をお許しください。 ただ、三成がなぜ佐和山に引かなかったのか整合性が取れませんでしたのでね」
早口で捲し立てるように喋る長政とは対照的に、松平忠吉は口角をあげたまま口を開かなかった。
視線だけが注意深く対する二人の使者の顔を交互に移動する。
「ただ、こちらもみなさまにも重大なお知らせをせねばなりません……実はこちらも岡崎より先を失っております」
「えっ!」
思わず正家の声が漏れる。
岡崎城は家康の生まれた場所であり、清洲城よりも徳川軍の起点としては規模も大きく、いわば徳川軍のホームタウンである。
「正確に言えば、岡崎城の半分が消え、その先はやはり海が続いています。舟を出しましたが、島などの陸は見つからず引き返さざるを得ませんでした……」
長政が遠い目をする。
「みなさま……あの情景、見たことがない人には信じられない情景でしょう。
もぬけの殻の岡崎城がまるで上からナイフで切り取られたかのようにものの見事に半分。
眼下に広がる海……天上の神か悪魔かが差配したとしか思えない……ちょっとディストピア感のある情景でしたよ」
「それはなにやら恐ろしいな」
秀家は血色の良い唇に手をあてた。
「ですから、領土問題で先ほど大蔵大輔殿を遮ったのは他でもない……こちらも領土と言っても元の日の本の形ではなく、岡崎までということを伝えたかったのです。
北はまだ全て調査できてはいませんが、やはり同様に海になっていると思われます」
「地殻変動でしょうか……?」
正家が尋ねる。
「わかりません。感じたのは雷のみで、大きな地震を感じたわけではありませんけどね」
しばし沈黙が走った。
長政は一気に話しすぎたのか、コップの水を半分ほど飲んだ。
痩せた喉仏が上下に動く。
「我々としては揖斐川から北……岡崎城、正確には岡崎の半分ですが……こちら側を治める。
そしてみなさま西軍は、揖斐川から南、佐和山の手前までを治める。まずは、そういった取り決めでどうでしょうか」
信じられない……という目で正家が傾聴席の左近を見た。
領土は安堵されたのである。
「よろしいので?」
秀家は今一度、長政に確認する。
長政は忠吉と目を合わせ、大きく頷いた。
「我々とて無駄な戦争をして、尊い命を失いたくありませんから。
これからはともに内政に励み、新しい秩序を作り上げる。
手に手を取り合っていつか、また同じ国になろう。上様……家康様はこうお考えであります」
「図書……さん、書いておいてくださいね」
今度は正家がお願いする。
伊奈図書が頷いて、筆を走らせた。
「さて……領土についてはザックリ解決の方向性で。ただしそれにはいくつか条件ございます」
「でしょうね〜」
正家が不満げに呟いた。
これで終わるはずがないのだ。
【松平忠吉】 江戸前期の大名。徳川家康の四男。 母は西郷局で、兄秀忠と同じ。1581年(天正9)病死した東条松平家忠の養子となる。小牧・長久手の戦後に人質として大坂に送られた。1590年武蔵国忍城主10万石、翌年大坂より戻る。1600年(慶長5)石田三成挙兵に対して、東海道を進む東軍諸将の先手大将とされ、関ヶ原の戦には舅・井伊直政と先駆して名をあげ、負傷した。没後、無嗣断絶。




