第109話 同じ今日じゃない!
首都からおよそ700km。
ナターシャは窓の外の光景を信じられない思いで見つめた。
隣のアナスタシアは青い目を見開いて窓枠に愛らしい唇を付けた。
長い栗色の睫毛をゆっくり閉じたり開いたりしている。
コンクリートの道端には叔母が留守の間、いつも二人を気をかけてくれた隣の家のニコライが転がっている。
ニコライの青いフードが冷たい雨に打たれている。
微動だにしないからニコライは既に天に召されているのだろう。
「お腹すいた」
アナスタシアは舌足らずな言葉を発した。
ナターシャにはどうすることもできない。
市街中心部の集合住宅地が敵襲を受けて、ナターシャの通うP大学に避難していたのが昨日までのことである。
10日間、大学の校舎で過ごした。
アナスタシアの小さな身体を温めながら毛布に包まって寝た。
そんな中、深夜……大学の第一校舎が轟音とともに崩れ去った。
大学までもミサイル攻撃の対象となり、ナターシャはアナスタシアを連れて炎と煙の中を逃げ惑った。
コーディネーターを名乗る日本人のミツオともその時離れ離れになってしまった。
着の身着のまま二人は叔母が戻っているのではないかと家に帰ってきたが、叔母は戻っていなかったし相変わらず叔母の携帯電話も繋がらなかった。
猫の世話もあった。
猫のムルチクは痩せていたがナターシャの顔を見ると元気に鳴いた。
叔母が当面の水とエサは用意して出たらしい。
ナターシャはまず自分の携帯電話を充電した。
大学ではいつも順番待ちで引っ込み思案のナターシャは十分に充電ができなかった。
友達から連絡が山のように入っている。
もちろん、母からも。
アナスタシアはナターシャの妹では無い。
母の妹である叔母の娘だから二人は従姉妹である。
ナターシャはP大学で心理学を学ぶため、叔母の家に下宿していた。
そこへ今回の事態である。
不意を突かれて、ナターシャは混乱した。
テレビでは相変わらずこの『特別軍事作戦』が崇高なものであり、ナターシャたち東部の人間を圧政から救うための極めて正しい作戦であるとコメンテーターが挙って発言していた。
ネオナチに鉄槌を。
ナターシャは堪らなくなってテレビを消す。
開戦以前と今日は果たして地続きなのだろうか?
世界はそっくりそのまま別のものとして移動してしまったのではないだろうか?
ナターシャはもうすぐ18歳になる。
この年頃の女の子の興味があることと言ったら――。
Tel◯gramでの他愛のないやり取りや誰と誰が付き合っただとか、友達のエレナの髪色が赤から青に変わったとか、滲まないマスカラだとか、公開されたアニメや映画の話だとか……。
目の前で繰り広げられる惨劇と結びつかないささやかな日常がゆっくりと過去のものになっていくのが怖い。
「きっと、悪い夢なんだわ」
ナターシャはアナスタシアの頭に頬を寄せた。
ナターシャは自身の黒い髪を触った。
窓に映るアンバーブラウンの瞳の虹彩が揺れる。
ナターシャは怖かった。
今にも屈強な兵士が入ってきて、柔らかな二人の身体に鉄の銃弾を容赦なく浴びせそうで怖かった。
現にニコライは……笑顔の優しかったニコライは銃弾を浴びて道の端で冷たい雨に打たれている。
ニコライもナターシャも、アナスタシアも彼らの言うネオナチなのだろうか。
玄関の扉がガタンと音を立てた。
ビクッとしてナターシャはアナスタシアを抱いて身構える。
咄嗟に火掻き棒を手に取る。
庭の納戸から引っ張り出したものである。
「ナターシャ! アナスタシア!」
「ミツオ!」
真っ先にナターシャの懐を飛び出したのはアナスタシアである。
玄関の扉の向こうからコーディネーターのミツオの声がする。
「ミツオ!」
扉を開けてアナスタシアはミツオに抱きついた。
「アナスタシア! ナターシャ!」
いつもは通訳を連れているが、今日は一人である。
ミツオは拙い言葉で迎えに来た、と話す。
ミツオが手に持っているのはFN SCAR(FNスカー)と呼ばれるベルギー製のアサルトライフルである。
大学でも警備員が持っていて、近くにいた同級生の男子生徒が教えてくれた。
ミツオは窓の外の向こう側の通りを指差した。
曇った窓ガラスの先――視界の隅に赤十字のマークのついた車が見える。
「Поспішати(急げ)!」
ミツオは道をキョロキョロと見回す。
「Come on!!」
ミツオは慌ててアナスタシアとナターシャを道を渡そうとする。
「чекати(待って)!」
アナスタシアが扉を開けて二階に走る。
「アナスタシア!」
アナスタシアは飼い猫のムルチクをバケットに抱えて持ってきた。
その間に悪夢のように敵軍の旗を掲げる車両が見えた。
「待て!!」
赤十字の車はまだ見つかっていない。
本来ならば赤十字の車は攻撃対象外であるがこの戦争においては、そのルールの適用外であるらしかった。
玄関でミツオが二人を制止する。
ミツオと目が合った。
ミツオはナターシャに微笑みかけた。
ナターシャはミツオのアーモンド型の瞳を見た。
ナターシャは外国語の授業で日本語を選択しているので(因みに日本語はけっこう人気がある)、他に日本人は何人も見てきたが、大学に突如現れたミツオは不思議な人だった。
日本の外務省から来たというミツオはナターシャとアナスタシアを日本に連れて行くと言う。
ミツオの顔立ちが幼かったため、ナターシャははじめ同じ大学生だと思っていたがナターシャが師事していた教授と同い年と聞いてびっくりした。
いつも子供相手にふざけていて、普段何をしている人なのかよく分からない。 但し、アサルトライフルの扱いを見ると、この人物は日本の軍人なのだ、と今はじめて気がつく。
アサルトライフルを手に持ったままミツオは低い体勢で外に出た。
アナスタシアとナターシャも後に続く。
「シーッ」
ミツオは人差し指を口にあててアナスタシアに笑いかける。
敵軍の車両が遠くの角を曲がって見えなくなるとと素早く二人を渡した。
二人は走った。
すぐ側をニコライが物みたいに横たわっている。
敵軍の車両は何か動きに気がついたのか、再び回ってきた。
ミツオが手を挙げる。
赤十字の車から目を逸らすためである。
「ミツオ!」
ナターシャは立ち止まって叫んだ。
後ろから強い力で誰かに掴まれる。
赤十字の腕章をした金髪の大男がナターシャとアナスタシアを抱えた。
「ミツオ!」
囮になったミツオが音もなく倒れた。
赤十字の車は猛スピードで発進していく。
どんどんミツオの姿は遠くなった。
「ミツオ……」
アナスタシアが泣いていた。
銃を所持したまま敵軍の軍人に見つかったのなら、確実に命はないだろう。
ナターシャは震える手でアナスタシアの深い金色の髪を撫でた。
何度撫でてもミツオの倒れた姿が目蓋に浮かんだ。
「悪い夢なのよ……」
ナターシャは震える唇でひとり小さく呟いた。




