君を洗脳
海外赴任の内示が出たのと同時に彼女に別れを告げた同期がいた。
社内恋愛だった為部署の女の子全員から総スカンをくらい、男の風上にも置けない鬼畜扱いを受けている。
自分の我儘で彼女を手放せない俺と、どっちが「鬼畜」になるんだろう?
「眠れないの?」
「えっ?」
窓際に座る彼女に声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。
「起きてたの?」
「違うよ。起きたの。」
「あ、ごめん。起こしちゃった。」
少し慌てる彼女に、俺はベッドから起きて近づく。
彼女は俺の顔を見上げると、視線を窓越しの夜景に戻した。
その横顔は、今日一日見せていた彼女の少しぎこちない笑顔を彷彿とさせて、俺を再び落ち着かない気持ちにさせた。
「着いた初日に連れまわしたからな。よく眠れるかと思ったんだけど、逆効果だった?」
「え?そうだったんですか?」
「ごめんね。」
俺は笑って、一瞬躊躇ったのち、彼女の頭を軽く撫でた。
彼女は少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに再び俺を見上げる。
するとそれだけで、俺の心は安堵に満たされる。甘やかな躍動を始める。不安や恐れが、嘘の様に消えていく。
一年ぶりに会う彼女は想像以上に美しかった。
眼差し、仕草、まとう雰囲気に、今までの意志の強さだけではなく、独特の深みが加わっている。
それは俺の知らない彼女の時間を連想させ、堪らない気持ちを駆り立てる。
早くから一人だった俺は、男のくせに、思春期の頃から結婚願望が強かった。
そして俺にとっての結婚とは、一生離れる事の無い家族を手に入れる事。
人生を最後まで共にするパートナーを得る事。
そのパートナーとは、常に俺を支え、見守り、手を握り締めてくれる存在。
途中でそれを想像させる女性に出会ったけど、俺達はあまりにも似すぎていた。
二人が同じ方向を見つめすぎて、隣を見る事が少なくなっていった。
そして俺は、この子に会う。
会って初めて、新しい感情を知る。
守りたい、と。
しかしそれを、意識してあえて、彼女には伝えない様に心がけている。
そんな事を口にすれば、自立心の強い彼女は怒るだろうから。
「こんな贅沢、馴れなくって。今朝までいた所と全然違うから。」
少し頬を染めながら話す彼女。嬉しそうな様子にホッとする。
彼女が言う程、贅沢なホテルではない。しかし二流でもない。どちらでも異議を唱えられるから、正直、腕の見せ所だ。
「そう?君の好みは難しいからな。」
「えっ。そんなつもりじゃ・・・」
「冗談だよ。」
彼女のほどけた雰囲気に安心した俺は、その柔らかな頬にそっと手を伸ばした。
「そーゆーとこをいかにクリア出来るか、ってのも楽しいんだから。」
「ゲームですか、私は。」
「ゲームより興奮するし、ハマってるよ。」
「・・・・。」
更に赤くなった。
つぶらな瞳が、挙動不審の動きをする。堪らない。誘ってるだろ、それ。
いや、これに誘われている俺が既に、末期症状。
「碧さん・・・。」
「ん?」
「私・・・。」
「・・・何?」
「・・・・。」
彼女は俺に頬を預けたまま視線を絡めていたが、急に押し黙り、そして益々赤くなり、顔を反らした。
俺はドキッとする。
未だに彼女の本心を聞けていない身としては、それだけで再び、胸に不安が広がる。
「スカイプって便利ですね。」
「え?ああ?」
つい、おかしな返事をしてしまった。唐突な話題転換。彼女の必殺技。
「昔の人は、ネットもスカイプも無しで海外に住んでいたんでしょ?信じられない。」
「昔って言う程、昔でもないけどね。」
「私、そんな生活、耐えられないと思う。」
そう言うと彼女は、真剣な面持ちで俺を見上げた。
少し、唇を噛み締めている。
真っ直ぐに、俺を見つめている。
意思の強い、光。
「私、思っていたより自分が弱くて、凹みました。」
この子は弱音を吐く時ですら、こんなに真面目に告白するのか。感心してしまった。
「どうしたの?」
「もっと色々な事、耐えられるんだと思っていたのに。ミステリーハンターの道は、中々険しいです。」
「・・・やめたくなった?」
「・・・いいえ。」
僅かに視線を漂わせた後、再び俺を見上げる。
真っ直ぐで綺麗な瞳の奥に、今まで見た事の無い、挑戦的な色が出ている。
驚きと共に、グッときた。
「仕事は、楽しいです。しんどくっても続けたいです。やり遂げれる自信もあります。」
「・・・いいね、その顔。最高。」
思わず、椅子に座った彼女の上半身を軽く抱き寄せる。
「じゃ、何?」
「・・・寂しいんです。」
一瞬、言葉が出てこなかった。
あまりにもストレートな物言いとその台詞に。
そして、それを隠さずに俺に打ち明けてくれた嬉しさに。
ジッと彼女を見つめる。彼女は柔らかく笑って、再び窓の外に視線を移した。
「・・・・。」
「思ったよりあまりにも寂しくて、衝撃を受けています。」
「・・・そっか。」
今日一日俺が抱えていた不安が、嘘の様に消えていった。
彼女が抱えていた寂しさにもっと早く、気付いてやるべきだったのに。
それよりも自分の心が軽くなって行く事に安堵を覚えるなんて、俺は何処まで情けない男なんだ。
寂しいと打ち明けてくれるって事は。
君は俺を必要としてくれているんでしょ?
「日本に居た時は、当り前に色々な人達に支えられていたんだなあ、って。」
「綾ちゃんは俺と違って、同じ海外居住でも、日本人社会に触れていないからなあ。」
「・・・んー、そう言う事とはちょっと違って・・・・。」
しきりと首をひねり始める彼女。これも可愛い癖の一つ。
「日本では・・・私を、好きだ、って言ってくれる人は・・・その、沢山?いたのだけど・・・今は・・・それがゼロからの出発っていうか・・・だから・・・。」
彼女を後ろからそっと抱きしめた。
「俺は?君を支えられてない?」
俺を必要としてくれる。
それだけで俺は生きていける。
誰かに支えてもらえれば、力強く生きていけると思っていた。
でもそれは、大きな間違い。
「まだまだ俺の力不足だな。寂しい思いをさせてごめん。もっともっと、君を・・・。」
前にまわって、彼女の顔を覗き込み、顎をそっと掴んで上に向けさせた。
少し茶化して、元気づけてやるから。
「甘やかして、縛り付けて、息もつけなくさせて、考えさせれなくしてやるから。安心しろよ。」
「あの・・・さすがにそこまでは・・・。」
「遠慮するなって。」
真っ赤になってうろたえる彼女。いつのまにやら楽しくなっている俺。
ヤベ。ミイラ取りが、ってこの事だ。
「碧さん、今日・・・。」
唇を近づけようと顔を傾けた時、彼女が遠慮がちに口を開いた。
天然だろうと計算だろうと、こういうタイミングの彼女にかまっていたら事が運ばないのは学習済みなので、構わず先を続ける。
「何?」
ほぼ唇を重ねながら囁いたが、彼女もさるもの、やっぱり引き下がらなかった。
「どうして・・・その・・・・。」
「ん?」
その口、もう塞ぐよ?
「・・・手も、繋がなかった・・・の・・・か、なぁ・・・」
「え?・・・・あ」
動きが止まってしまった。手を繋ぐ?
「・・・・ああ。」
やられた。また負けた。ビックリした。
思わず顔を離して彼女をマジマジと見下ろす。彼女はかなりうろたえていた。
「それ、気にしてたの?」
「・・・・。」
「ひょっとして、眠れなかった原因って、それ?」
「・・・・。」
気付かなかった。うそだろ?マジかよ?
「・・・ヤベぇ。すげー嬉しいんだけど。」
「あの・・・。」
俺が一人で、悶々と、久しぶりに会った彼女の顔色をうかがっていた時に、
まさか相手も同じ思いを抱えていたとは。
そっか。俺達、実際の付き合いは、まだまだ日が浅いもんな。
そりゃ色々考えるハズだぜ。
「ここはさ。一応イスラム国家だろ?外で、つか公衆の面前で、男女が手を繋いじゃいけないんだよ。」
「えっ?そうなんですか??」
「そう。うっかりキスでもしようもんなら、警察に捕まってもおかしくない。」
「えええー??」
彼女は大きな声を上げ、口をポカン、と開いた。
その唇に、誘われる。君は知らない。
「こんなに都会なのにー。」
「ま、ね。他のイスラム国家よりは随分ユルイと思うけど。」
彼女を柔らかく抱く。ゆるゆると、立たせる。
瞳を甘く見つめる。
「俺、そーゆーの、割と人目を憚らない方だったから自制してたの。結構大変だったんだぜ、こっちも。」
「・・・それで、空港でもハグだけ・・・。」
「ああ、アレが一番大変だった。まさか空港で逮捕される訳にもいかないから、続きを我慢するのがかなりキツかった。一度すると、止まらないだろ?」
「・・・・。」
真っ赤になって口を閉じる彼女が堪らなく可愛くって、その耳元に唇を寄せ、低く囁いた。
「ひょっとして、夜もご不満だった?」
「いえっあのっ」
「君がかなり疲れているだろう、って俺の中では一日お預け決心をしてたんだけど。」
彼女の瞳に視線を戻すと、妖しく揺れている。
誘っているよね、それって。
「止まんねえよ?覚悟しろよ?」
深く、深く口づける。今までの全てを絡めとる様に、彼女の中を掻き乱す。
誰かを守りたいと思ったのは、初めてなんだ。
君のその瞳を守りたいと思っているんだ。
そんな事を言ったら、君はきっと怒るのだろうけど。「私は自分の足で歩きたい」とか「対等でいたい」とか言うんだろうね。目に浮かぶよ。
でもね。君の瞳は、俺の宝物なんだ。俺の人生に欠かせないモノなんだ。
宝物を守りたい、と思うのは当然だろう?
だから。俺は君を手放せない。
守る事で、俺の心は守られているから。
君が、必要なんだ。
俺を、求めろよ。
「綾香は隙だらけだから。その隙、絶対他の男に見せるなよ?」
「隙なんて・・・そんな、の・・・」
「そのギャップに男はハマるんだよ。いいかい?君のその寂しさを埋められるのは、この俺だけ。」
首筋から胸元に落とすキスに、彼女の息が荒くなる。
俺は彼女を掻き抱きながら、優しく囁く。
「覚えておけよ。・・・俺だけだから。」
君が俺から離れられなくなるように。俺の側に居続ける様に。俺なしでは居られなくなる様に。
それとは気付かれない様に。優しく守って。柔らかに縛って。
君を、洗脳しよう。
番外編です。碧と綾香の休暇です。時間軸は、本編終了の一年後、です。先の番外編で祐介と顔を合わせる、一年前ですね。
kuromugi様、こんな妙なモノでいいでしょうか?
本当はもっと爽やかな休暇を書く予定だったのにビックリしました。(笑)
付き合って数カ月で遠恋に突入した二人ですから、きっと年に一度の逢瀬は大変な不安を抱えているんだろうな、と思ったらこうなりました。
場所は、ドバイです。アフリカの田舎には疲れきっているだろう、という碧の綾香に対する思いやりです。商社の独身男はお金も持っていますしね(笑)
これにて、本当に完結です。
今まで読んで下さって、本当にありがとうございました。
作者も大変楽しい時を過ごさせて頂きました。
次作も、宜しくお願い致します。
戸理 葵