告白
沈黙が広がった。
河島健は戸口に立ちふさがったまま、何も言わない。
何を考えているのか、その表情からは読み取れないのだけれど、沈黙が、雄弁に語っている。
肯定、を。
「・・・何やってるの、拓也?」
拓也が携帯を取り出して操作している。
私が聞いたら、彼は日常会話の続きの様に言った。
「警察に電話してんの。」
「え?」
「当り前でしょ?犯人分かったんだか、あ、もしもし?・・・はい、事件です。」
部屋に拓也の声だけ響き渡る。誰も口を開かない。
多分、みんな分かっている。今更警察に届けた所で、何もどうにもならない事ぐらい。
でもやっと、終わったんだ。
やがて碧さんが、静かに言った。
「・・・動機は何だ?」
河島はしばらく碧さんを見つめた。何も映していない目だった。
その後、わずかに藤田さんを見て、そして静かに答えた。
「動機なんてないよ。」
「・・・え?」
思わず口に出してしまったのは私だった。動機がない?
「目の前で人が刺された。倒れている。死んだかどうか、後からこっそり確認に行った。死体を見てみたかったからね。だけど死んでいなかった。」
観念したのか開き直ったのか、どうせ今更罪には問われないとでも思っているのか、彼はまるで台本を読み上げるかのようにスラスラと淀みなく言葉を続ける。
「なんでこいつ死んでいないんだろう、と。どこまで刺せば死ぬんだろう、と。それでナイフの柄を押してみたんだ。そしたら死んだんだよ。」
「・・・な・・・・・。」
あまりの事に言葉が出ない。開いた口が塞がらない。自分の目が見開かれているのが分かる。
目の前の事が、信じられない。
心が急激に冷えていく。
私の脇で、碧さんが目を閉じた。眉根を寄せて少し天井を仰いだ。
何かを我慢している様子だった。
そして、まるでぶつけようのない憤りを飲み込むかの様に一瞬俯くと、河島を睨み、低い声で言った。
「なんだよ、それ・・・・。」
憎しみのこもった、お腹の底から絞り出すような声だった。
そんな彼を見るでもなく、河島は淡々と言葉を続ける。
「だから動機は、と聞かれれば・・・そうだな。それは目の前に瀕死の人間がいたからです、かな。」
碧さんが、ゆっくりと河島に近づいて行った。
ゆっくりと、ゆっくりと近づいて行くのに、背中から怒りが溢れ出ているのが分かる。
なのに藤田さんは、碧さんを止めない。無表情な瞳で、彼が河島に歩み寄るのを、まるで観察している。
私が思わず碧さんに駆け寄ってその腕を引っ張るのと、碧さんが口を開くのが同時だった。
「・・・動機はない、だって?ふざけんなよ。だったら誰でもよかったっていうのかよっ。」
「別にそうは言ってないだろ。あんな状況に陥っている奴じゃないと、俺もその気には」
碧さんが、私に引っ張られていない方の手を河島に伸ばして、その胸元を掴みあげた。
彼の怒りが、一気に爆発した。
「恨みがあったんじゃねえのかよっ。あいつに苛められたとか、殴られた、とか、癪に障った、とか、そんな理由もねえのかよっ。それじゃそこら辺にある通り魔と同じじゃねえかよっ!」
「通り魔とは違うだろ。人前で狂ったようにナイフを振りかざす人間とは違う。」
「通り魔より最悪じゃねえかっ!てめえは隠れてんだろがっ!理由も無く殺して、しかも人に罪を着せて?15年間、平気な面して人前に出るお前に、何が言えるんだよっ!ふざけんなっ!」
「碧さん、殴っちゃダメ!!」
殴っちゃダメ。殴っちゃダメ。今殴ったら、碧さんは相手に大けがを負わせてしまいそうな気がする。
でも本当は心の中で考えている。好きなようにさせてあげたい。
碧さんがこんなに大声で、感情に任せて相手に怒りをぶつける姿を、当り前だけど初めて見た。
私に止める権利なんてあるのかな。15年間の苦しみや悲しみを背負った碧さんには、やりたいようにさせてあげるべきなんじゃないのかな?
そんな思いもあったのに、目の前の碧さんが誰かを殴る所なんて見たくなくて、結局それだけの理由で、自分中心の理由で、彼の腕を必死に掴んで引っ張っている。
再び、部屋は静まり返った。
私の引っ張りが効いたのか、碧さんはそれ以上の事はしなかった。
「本当に、理由は何もないのか?人を殺してみたかった、ただそれだけなのか?」
私の手を振り払わず、でも私の方を一瞥もせず、河島の胸元を掴んだまま低い声で聞く。
河島も、そんな状況なのに、顔色一つ変わらない。
この人は、多分本当に、病気だ。
「・・・そうだね。付け加えるとしたら、誰かの運命を支配してみたかった。」
「・・・運命・・・?」
胸倉をつかんでいる碧さんの手が、わずかに揺れた。
信じられない、という表情。
整った顔が切なく歪み、眉間のしわが更に深くなった。
「そう。運命。」
「・・・本当にあいつと面識もなかったのか?」
「全然。」
「・・・・っ」
碧さんが顔を背けた。私からは見えない。でもわかる。
この人は今、予期せぬ言葉とあまりの怒りに、自分の感情を持て余している。
肩が小刻みに震えている。私が押さえている方の腕は拳が強く握られ、その力で手が真っ白になっている。血が出てきてしまうのではないかと思った。
藤田さんが、そんな彼を冷静に観察し続けている。
「・・・あいつは、何の理由も無く殺されたのか?」
振り返って言う彼の瞳に、涙はなかった。でも、長い綺麗な睫毛が濡れていた。目が赤くなっていた。
スラッとした長身の体全体から、言い様の無い程の憎しみと悲しみがにじみ出ていた。
河島は、そんな碧さんの表情を、藤田さんと同じ瞳で、まるで観察するように見つめながら言った。
「僕には、ない。葉山には、あったんだろ。第一あのまま放置されたとして、生きていたかどうかは不明だろ。」
「だからお前が刺しても関係無いってかっ!」
私が引っ張っている方の腕まで、大きく力が入って跳ね上がった。
私はそれを、体全体で押しとどめた。
だって、今度殴ったら警察に言うって、あの人言ってた。それじゃマズイじゃない。
「てめえ、このやろう!!」
私は涙がボロボロ出てきて、碧さんのコートの袖を濡らしてしまった。
大事な人を、理由も無く失ってしまう。碧さんはそれを、立て続けに2度も、経験してしまったんだ。
大好きなお兄さんと、交通事故で失ったお母さん。
お兄さんの死に理由がなかったと聞かされた今、15年前の子供の頃の苦しみを、もう一度正確に体験してしまっている。あの苦しみを、今この人は再び味わっている。
自分の運命を、きっと呪っている。
河島健・・・河野健一には、こういった感情が欠けているんだ。
体を支配して心臓まで止めてしまいそうな悲しみ、他人の心情を慮る心の機能が欠けているんだ。
「・・・かわいそう・・・。」
私の涙でグショグショにしてしまった碧さんの袖を見つめながら、俯いて私は小さく呟いた。
碧さんは河島を睨んで掴み上げた腕を震わせたままだし、藤田さんは二人を観察し続けているし、拓也は後ろで私達をじっと見ている。
「・・・河島さん、可哀そう・・・。」
私が再びそう呟くと、3人が、いや、河島を含んだ4人が、私の方を見た。
誰もが大なり小なり、驚いた目をしていた。
「・・・誰の心もわからず、理解も出来ない人生を生きてきたなんて、可哀そう。・・・人を殺しても、誰かが罪を着せられても、それで大勢の人達が涙しても、平然と生きているなんて・・・可哀そう。」
河島健が、切れ長の瞳と眉を少しひそめて私を見ている。
碧さんが驚いた表情で私を見下ろしている。
私は、碧さんの手を放した。碧さんの反対の手は、掴んだ河島の胸倉から力をわずかに抜いていた。
「誰かの運命を支配したかった、なんて、そんな形でしか他人と関われないなんて、可哀そう。・・・本当は、私をストーカーしていた訳じゃない。」
私は彼の瞳を見つめた。
「私を、待っていたんですよね。」
彼の瞳が、揺れた気がした。
「終わらせたかったのに、自分では終わらせられないから、私を待っていたんでしょ。・・・ごめんなさい。私、あの時小さすぎて、怖すぎて、何も言えなかったんです。」
私は少し俯いた。そして、思い切って顔を上げた。
河島健は真っ直ぐ私を見ていた。やっぱり、何も映していない目の様に思えた。
「15年間待たせてごめんなさい。今なら、ハッキリ言えます。あの時、中野さんにトドメを刺していたのはあなたでした。」
河島以外の3人が、少し息を飲むのがわかった。
私がこれを、断定するなんて思っていなかったのだろう。
「あの時、あなたは手に白っぽいものを持っていた。多分ハンカチでしょう。それで手を覆って、・・・全体重をかけて彼にナイフを沈めた。それからゆっくりと体を起こした。そして私に気付いた。・・・私を、ジッと見つめていた。」
思いだされる。
まるで、テレビドラマのワンシーンの様に。
「あなたは、人を殺した。・・・みんなを、不幸にした。」
河島健はゆっくりと微笑んだ。優しそう、と言うよりも、満足気、という感じだった。
「・・・君は、子犬を抱いていた。」
まるで教師が、「君は、合格。」って言うようだな、と思った。
「ありがとう。」
そう言って彼がわずかに私に近づいて、手を伸ばした。
本当に一瞬、油断した。一瞬。
次の瞬間、ぐいっと彼に腕を掴まれ、廊下に投げ出された。
体と頭を壁に打ち付け、全身に痛みが走った。
何が起こったのか分からず、少ししてから顔をあげると、河島が廊下に立って、部屋に鍵をかけ終わった所だった。
部屋の中からは、みんなの大声とドアを叩きまくる音がした。