8話 光差す書架のあいだで
「ビーチェちゃん?」
急に黙り込んだフェデリカの顔を、エディは心配そうに覗き込む。彼女は過去の記憶を静かに飲み込み、口角だけをわずかに上げた。
「問題ございません」
エディは心配そうな表情を隠そうともせずに「そう、ならいいのだけど……」と返事をした。二人の間に沈黙が落ちる。
「……そろそろあっちも落ち着いた頃だろうし、屋敷に戻る?」
「そうですね。あまり長居してもご迷惑でしょうから、そろそろ失礼いたします」
フェデリカは優雅に立ち上がると、スカートの裾をつまむ。
「先ほどは妹ともども、お助けいただき誠にありがとうございました。遊学よりお戻りになられたこと、心よりお慶び申し上げます」
「礼には及ばないわ。……ねえ、また昔みたいにおしゃべりしてくれる?」
「フィオさんがそれを望むのでしたら、やぶさかではありません」
彼女ははっきりと頷く。扉を出ていこうとしたフェデリカを、エディは「待って」と呼び止めた。
「どうかなさいましたか?」
「せめて門までエスコートさせてちょうだい。また道中で絡まれるかもしれないから」
「お心遣いに感謝いたします」
フェデリカは微笑みを浮かべ、彼の先導についていく。そのまま二人は正門までの短い距離を歩いた。馬車に乗り込もうとする彼女に手を振りながら彼は口を開く。
「またね。今度はもっとゆっくりおしゃべりしましょう?」
「はい。本日はありがとうございました。フィオさんもお元気で」
フェデリカを乗せた馬車は伯爵家に向かって進み始める。エディはその様子をじっと眺めていた。
その後、夜会会場に戻ることなく自室へと帰ったエディは、ふかふかのベッドに顔を埋める。頭をよぎるのは、フェデリカの痛みを堪えたような笑みだった。
「……どうしてアタシは遊学に出ちゃったのかしら」
顔を枕に押し付けながら彼は独りごちる。そのまま彼の思考は4年ほど前に旅立っていった。
◇
フェデリカとエディが出会ったのは、王立の大図書館だった。陽の光が高い窓から射し込み、積み上げられた本の背表紙をやわらかく照らす。そんな中、エディはリオート語の本を片手に参考書を物色していた。
「ええと……参考になりそうなのは……」
彼は本の背表紙をじっくりと眺める。リオート語史、リオート語古典詩選、リオート語における敬称と社会的階層……。様々な本が並ぶが、少し専門的すぎたり古典表現が多かったりとあまり役に立ちそうにない。エディは眉間にしわを寄せながら本の背表紙を睨みつけていた。
「あら、これは悪くなさそうね」
彼の目に飛び込んできたのは、リオート語概論という本だった。開いて内容を確かめようと手を伸ばした瞬間、隣から白魚のような繊細な手が伸びてきた。手と手が触れる。
「あら、ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ申し訳ございません」
手の主は利発そうな少女だった。まだデビュタントを迎えていないのだろうか、あどけなさが残る顔には深い海のような瞳が浮かぶ。彼女は申し訳なさそうに手を引っ込めた。
「アナタもリオート語に興味があるの?」
「はい。まだ勉強を始めたばかりですが」
「そう。じゃあ……ズドラーストヴィチェ」
「ズドラーストヴィチェ、オーチン、プリヤートナヴァス、ヴィージェチ」
リオート語で挨拶をした彼に対し、彼女は淀みのない発音で答える。エディは「すごいわ。綺麗な発音ね」と感心した。
「ありがとうございます。独学でしたので不安でしたが、褒めていただけるのなら安心です」
少女はネモフィラのような控えめで柔らかい笑みを浮かべる。エディはその日、その微笑みに目を奪われてしまった。
その日から、エディと少女は何度も図書館で顔を合わせた。リオート語をはじめとした外国語で少し会話したり、参考書の良し悪しを話したり。互いの名前も知らない、約束もしていない交流は細々と続いた。
「あら、今日はミスト語の本なのね。……随分難しい顔をしてるけど、何かお困り事かしら?」
「はい。『恋は錠前屋を嘲笑う』の意味が分からなくて……」
「ああ、慣用句ね。確かこの本に載っていたはずよ」
エディにとって、この交流は等身大の青年でいられる時間だった。何回目かの同席の折、少女はエディに「そういえばなんですが、私たち、まだ互いに名乗ってはいませんでしたね」となんとなしに言った。
「……そういえばそうね……」
その言葉を聞いて、彼は表情を苦くする。もし王弟である自分の立場がバレてしまったら、この少女は今まで通りの態度をとってくれなくなるかもしれない。
「お気を悪くされたのなら申し訳ございません。互いに呼び合える名前があれば便利だな、と思った程度ですので。忘れてください」
「そういうことなら、ミドルネームでもいいかしら?」
エディは恐る恐る伝える。少女は淡々と「それで構いません。では私もミドルネームのみ名乗りますね。ベアトリーチェ、と申します」と答えた。
「ベアトリーチェ……。なら、ビーチェちゃんでいいかしら」
「お好きにお呼びください」
「ありがとう。アタシはフィオーラっていうの。……そうね、フィオとでも呼んでちょうだい」
「はい、フィオさん。改めてよろしくお願いします」
ビーチェはかすみ草のように控えめに微笑む。柔らかな陽射しが窓から差し込み、穏やかな風がカーテンを揺らした。
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