21話 ここにいてもいい
法案施行から一ヶ月後。慌ただしかった仕事も落ち着き、ようやく通常通りとも見える業務量に戻った頃。
「チェレスティーニ嬢、こちらで最後です」
「ありがとうございます。……確認いたしますね」
法務局には少し前まででは考えられないほど軽い空気が漂っていた。フェデリカは書類を受け取り、素早く目を走らせる。条文番号、判例の引用、署名欄。どれも問題ない。赤ペンで小さくチェックを入れ、書類を返した。
「すっかり落ち着きましたね」
「ようやく定時帰りでも回せるほどになりましたから。連日帰りが遅くなり、マリーナには寂しい思いをさせてしまいました」
「そうですね……妻と子供にはずいぶん負担をかけてしまいました」
上司は遠い目をして呟く。
「……庭師に頼んで花束を準備しましょうか」
「それがいいと思います」
彼が「本日帰ったら庭師に相談しなくては」と笑った時、昼休憩を告げる鐘が鳴った。
「さてと、食事に行こうか。食事をおろそかにしてはまずいからね」
彼はそう言って立ち上がる。フェデリカも「そうですね」と頷いて席を立った。
「あら、ビーチェちゃん。偶然ね」
食堂に着いたフェデリカに声をかけたのはエディだった。
(婚約条件を確認するため、殿下には近々お時間をいただきたいと思っていたところでした。ちょうどいいですね)
彼女はそう考えて一歩踏み出す。その時だった。
世界がぐるりと回転する。足元がおぼつかなくなり、自重を支えられなくなる。
「ビーチェちゃん!?」
床に崩れ落ちそうになった彼女を、間一髪でエディが受け止める。彼が大丈夫? と問いかけても、気を失ってしまった彼女は答えない。改めて顔を見てみれば、顔色は悪いのを通り越して土気色になっており、目の下のクマが化粧で誤魔化されていた。
目の前で人が倒れたという状況は、食堂を一気にざわつかせた。
「すぐに医務室……いえ、お医者様を呼ぶわ。侍従を呼んできてちょうだい」
エディが即座に指示を飛ばせば、食堂を満たしていたざわめきは消える。その場にいた人々は入り口に走る、エディが通りやすいよう椅子をどかせて道を開けるなど、統率された動きを取り始める。
彼は食堂に駆け込んできた侍従に、客間を開けることとお抱えの医師への連絡を指示した。
◇
頭がズキズキと鈍く痛み、フェデリカは顔を顰めながらも目を覚ました。
「……一体何が……?」
「あら、気がついた?」
ベッドの傍で本を読んでいたエディが顔を上げる。
「フィ、フィオさん!? 申し訳ございません、多大なご迷惑を……」
彼女はそう言って体を起こそうとするも、鈍い頭痛がそれを阻む。彼は「まだ起きちゃダメよ」と彼女を嗜めてから、「いいの。気にしないで」と笑った。
「お水でも飲む?」
「……そうですね。いただきます」
フェデリカが頷くと、彼は彼女の体をそっと起こして水を飲ませてくれた。布団をかけ直してもらったところで、彼女は「……私は、倒れた、のですよね?」と確認した。
「ええ。お医者様の見立てでは過労と寝不足、あと軽い栄養不足だろうって。数日は安静にしてなきゃダメよ。しばらくは泊まっていってちょうだい」
「そんな、ご迷惑はかけられません」
恐縮する彼女に対し、彼は「あなたをお家に返したら、また仕事するでしょう? 連日深夜まで執務していたってタレコミがあったわよ」と軽く笑う。
「……申し訳ございません」
フェデリカは布団を被りながら小さくなった。
部屋の中には侍女もいたが、フェデリカの世話は基本的にエディが担当した。彼女はその度に「申し訳ございません」と恐縮する。彼はその度に「いいのよ。気にしないで」や「アタシがやりたくてやってることだから」と軽く笑った。
「……ねえ、何をそんなに謝っているの?」
何度目かの謝罪ののち、彼はそう疑問を口にする。
「……多分なご迷惑をおかけしていますから」
「アタシは迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないわ。むしろ役得よ」
エディの言葉を聞いてもフェデリカの顔は晴れない。
「……じゃあ一つ聞くけど。妹さんが同じように倒れたらどう思う?」
「……自己管理も仕事のうちですよ、とは言うかもしれませんが。なるべくそばについてあげたいですね」
「アタシもおんなじ気持ち」
彼女は目を丸くする。
「そばにいたいから看病するの」
「……そう言われても、分かりません」
彼女は布団を握りしめながら続けた。
「私には、そうしていただけるほどの価値もありませんから」
エディは意識して穏やかな笑みを浮かべる。一度深呼吸をしてから言葉を紡いだ。
「どうしてそう思うの?」
「……地味で華やかさもなくて、きつい性格で。ただでさえ令嬢としての価値なんてない。ならばせめて仕事だけはちゃんとしようと思っていても、自己管理ができずに倒れて、フィオさんに、皆さんにご迷惑をかけてしまって……。官吏としても、当主代理としても失格と言っても過言ではありません」
「アタシはそうは思わないけど。でもそうね」
彼は微笑んだまま口を開く。
「たとえあなたがあなたの言うような人だったとしても、アタシが看病しない理由になんてならないわ」
「……どうしてですか……」
「あなたのことが大事だから」
……分からない。理解できない。それでもエディの言葉は『泣きたくなるほど』温かいことだけは理解できた。思わずポロポロと流してしまった涙を、彼がそっと拭ってくれる。
「大丈夫。あなたはここにいてもいいの」
彼の手を握っても何も言われない。それどころか、反対の手でそっと頭を撫でてくれる。
「大丈夫よ。そばにいるわ」
彼の温もりと声がぼんやりと頭に残る。その日彼女は久しぶりに何も考えず深く眠ることができた。
読んでくださりありがとうございました。評価、いいね、ブックマークをしてくださると励みになります。




