輿入れの日①
「すべて笠松の家で用意してありますので、そのままお越しください」
翌朝、ヤエの家の玄関先で、傘をさして待つ使いの者が父に言った。ヤエの嫁入りは急ごしらえで行われることになり、久しぶりに箪笥の奥から出された紋付にカビが生えていると、父と母が慌てていたのだ。
使いの者から手渡された傘の中で、ヤエは、妹をおぶった母のほうに傘を傾けながら、ちらりと顔を覗いた。
母の目は晴れ上がり、目の下には濃いクマができていた。おそらく一晩中寝られなかったのだろう。ヤエとて、一睡もできなかった。
昨夜、布団に入ったとたん、突然申し渡された死への恐怖と自己憐憫にさいなまれ、一晩中涙が止まらなかったのだ。いっそこのまま夜のうちに逃げ出して、誰も知らない土地でひっそりと暮らそうか……などとも考えた。だが仮にそのようなことをすれば、残された家族が、今後どんな扱いを受けるのか想像に難くない。ヤエとて知らない土地で、独りでやっていくにはまだ若く、到底現実味のある計画にはなり得なかった。
考えて、泣いて、独り悶えてはまた泣いて、そうして空が白みはじめたころ、ようやく覚悟のようなものが決まった。
振り返れば、後ろを歩く父と兄の姿があった。二人もやはり、目の下にクマを作り、ひどく疲れた様子で下のぬかるみを見ながら歩いている。
――覚悟、などではない。
ヤエは思った。
――諦めたのだ、運命に逆らうことを。
笠松家の座敷へ上がると、どこからこしらえたのか上等な白無垢が衣桁に掛けてあり、ヤエの花嫁衣装だと聞かされる。近くまで行って見てみれば、白の絹糸で刺繍された鶴と亀が全体にあしらわれた高価なものではあったが、いくらか着古された感が否めない。
「新品じゃないのか……」
小さな声でつぶやく兄の腕を、母が軽く叩いてたしなめる。
そのときだった。
「ヤエ……」
声をかけてきたのは笠松家の次男、菊二郎だった。一瞬、すがるようにヤエが見上げた菊二郎の影から、すっと一人の娘が現れた。
この娘――。
ヤエは娘に見覚えがあった。たしか、やはり笠松家の遠縁にあたる娘だったはずだと、ヤエは記憶をさらう。
何度かこの家で会ったことがある娘だ。幼い日、千代紙で作ったヤエの大切なひな人形が、ぼろぼろになって笠松家の土間の隅に落ちていた光景を思い出す。その日の前日、ヤエの人形を欲しがり、無理やり奪っていった娘は、たしかこの娘だった。
名前を何といっただろうかーー。
ヤエがまじまじと見つめた娘が口を開いた。
「私どももこのたび、縁談がまとまりましたもので」
菊二郎は、不貞腐れたようにそっぽを向き、押し黙っている。娘は、菊二郎の傍らですっと膝をつき、三つ指をそろえて丁寧に挨拶をした。
「ハギと申します」
ヤエとほとんど年も変わらない、幼さが残る勝気な顔をしている。ヤエも慌てて手をつき、挨拶を返す。
「ヤエでございます。そのようなこととは知らず、お祝いが遅くなりました。このたびはおめでとうございます。」
ハギの横で立ち尽くしたままの菊二郎は、身じろぎもせず顔を背けたままでいる。
「恐れ入ります。ヤエ様もこのたびのお嫁入り、まことにお慶び申し上げます」
手をついたまま一度顔を上げたのち、深々と再び礼を捧げる菊二郎の婚約者であったが、しかし顔を伏せる一瞬、唇の端がニヤリと上がるのをヤエの目は見逃さなかった。
ヤエは言いようのない口惜しさと哀しさがこみ上げてきたが、それを悟られぬように「もったいないお言葉でございます。」と同じく手をつき、深々と頭を下げた。
「時間がございません。急ぎお支度を」
そう言って白無垢のある座敷へと入って来たのは、笠松家の使用人である女性だった。
この座敷がそのまま支度部屋になるということで、ヤエとヤエの母だけが残り支度を始める。
大きな鏡台の前に座り、入念に髪をとく母が鏡越しにヤエの顔をのぞく。
鏡に映ったヤエの目は、どこでもない遠くを見ていた。
「おかっさん、なんで私なんやろか」
ふいに、ヤエが独り言のようにつぶやいた。
龍神様の嫁は、なぜあのハギじゃなくて私なんだろう。なぜ菊二郎様の嫁は、私じゃなくてハギなのだろう。答えのない問いが、ヤエの頭の中を堂々巡りしている。
母は目を伏せながら言った。
「龍神様は器量好みなんだと」
「え?」
ヤエは鏡越しに母を見る。母は、今にもこぼれそうな涙をこらえて続ける。
「お前がお腹にいるとわかったときな、おっかさんは直感で『この子は女の子じゃ』って思うたんよ。そんで、『そんなら』と思ってな? 近くの弁天様に足しげく通って『どうか……どうかこの子に器量を恵んでやってください』って……」
母はそこまで言って、震える声に次の言葉が続かず、ついに大粒の涙をこぼす。
「こんなつもりじゃなかったんよ。女の子なら、どっかいいとこの若旦那にでも見初められて、幸せな嫁入りができるのが一番じゃあ思うとったけん。そう思っとったんじゃ……それなのに……それなのに……余計なことをしたばっかりに、ごめんよぉ」
そう言って母が嗚咽する。
そして、最初は龍神様の嫁にはハギを……との声があったのだとも聞かされた。だが、ヤエを推したのは意外にも笠松家の大奥様だったという。大奥様は、自身の世話を献身的にしてくれたヤエのことが大変気に入り、龍神様もヤエならば必ず怒りの矛を収めてくれると、そう提言したそうだ。
「なんでわしらは、こうも要領が悪いんやろね。やることなすこと、みんな裏目に出てばっかりじゃ」
ヤエが目に涙を浮かべて、くすりと笑えば、
「ほんまやねえ」
そう言って母も、泣いたまま笑い出す。
そうやって、二人でひとしきり泣いて、笑った――。
ようやく支度も整ったころ、障子越しに部屋の外から声をかけてきた者があった。
――菊二郎だった。
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