輿入れの日②
ようやく支度も整ったころ、部屋の外より声をかけてきた者があった。
――菊二郎だった。
何かを察した母が、しばし用を足すと言って座敷を出る。
母と入れ替わって入ってきた菊二郎が、ヤエの前におずおずと膝をついた。うつむいて、膝の上で固く拳を握っている。よく見れば、右の拳には何かが握られているとヤエは気がつく。
「菊二郎様?」
様子のおかしい菊二郎を気遣うように、優しくヤエが声をかける。
すると、菊二郎は無言のまま、手に握られていた小さな木箱をヤエの前に差し出した。
ヤエは木箱に目を落とし、次いで菊二郎へと視線を戻す。
「これをもらってほしい」
ようやく口を開いた菊二郎だったが、それきりまた押し黙ってしまった。
ヤエはそっと箱へ手を伸ばし、中をのぞいてみる。
蓋を開けると、そこには桜の飾り彫りが施された見事な柘植の櫛があった。
ヤエははっとして目を上げ、菊二郎をまじまじと見る。
「こんな高価なもの……私はいただけません。それに、もう、私には必要ありませんので」
ヤエが寂しそうに言うと、菊二郎は声を絞り出すように話しだした。
「最初は兄さまにと、兄さまの嫁にとヤエの名前が挙がったんや。だけど、私は猛反対した。兄さまとヤエでは歳が離れすぎているし、もっと他にいい相手がいるはずやって。そのときはそれでやり過ごしたのに、そしたら、次には龍神様の嫁に、なんて……」
ヤエは菊二郎が何を言っているのか理解できず、眉根を寄せる。
「私がいけなかったんだ。私が……あわよくばなどと考えず、はっきり……はっきり言わんかったから。ヤエは……私がもらいたい。私の嫁にしたいんやって!」
菊二郎の腹から絞り出すかのような言葉に、ヤエは目を見開く。
「今更や。今更になって強く訴えたら、お前にいつまでも伴侶が決まってないのがいけんのやって、突然、よく知らない者が嫁にやって来た」
ヤエは目に力を入れ、今にもこぼれそうな涙を必死でこらえる。
本当に今更だ、今更なのだ。
だから今、泣いてしまえば、誰かを、運命を、そして自分自身を呪いたくなるかもしれない。
今や先に泣き崩れてしまった菊二郎は、涙もぬぐわず続けた。
「ヤエ、私はお前が好きだ。それなのに、何もしてやれん不甲斐ない私を許してほしい。だけどもし、もしも生まれ変わったなら……そしてお前がこんな私を許してくれるなら、私は生まれ変わった世で必ずお前を探す」
真っ赤に充血した目で、菊二郎はまっすぐヤエを見る。
「はい……」
ヤエの涙腺が、ついに崩壊した。
「必ず来世で会いに行くから……だからそのときは、どうか私の伴侶となってほしい。それまでの、約束の証としてこれを渡しておく。私が迎えに行くまで、待っていてくれるか?」
「……、はい……」
ヤエは消え入りそうな自分の声を必死で押し出し、菊二郎に向かって三つ指をついた。
涙が、あとからあとからこぼれてくる。「ああ、せっかく綺麗にしたものを」と、母が目を吊り上げる姿が脳裏に浮かぶ。それでもヤエは、あふれ出る涙をこらえることができなかった。
花嫁だけの祝言は簡単なものだった。
普段見ることのないご馳走に、目を輝かせながら箸を伸ばす幼い妹が可愛くて、ヤエはいくらか癒される。赤く腫れあがった目を他の者にはなるべく悟られまいと、綿帽子で目元を隠しながら、自身の短い生涯を思い起こす。
いつも優しくて働き者だった母、物静かだが頼りがいのある父、幼いころはよく喧嘩をしたものだが泣いていればいつだってすぐに駆けつけてくれた兄、そして屈託のない笑顔でいつも甘えてきてくれた可愛い妹。
十分である、十分に幸せな人生であった。
そして……
ヤエは柘植の櫛をしのばせている自身の胸元にそっと手を置く。
幼いころより憧れていた菊二郎様、遠い存在だと思っていた。それが今や、菊二郎も自分を想ってくれていたのだと知れた。これを悲劇だというのだろうか……「いや、自分はこの世で一番の幸せ者なのだ」ヤエは自分に言い聞かす。
ここがヤエの人生の中で、おそらくもっとも輝かしい頂で、ここで生涯を終えられることは、むしろ慶ばしいことなのだ。
これ以上の幸せなどない、だからこれでよいのだ。
これ以上を、願うなど……。ヤエの視線は、愛しい人の方へと自然に向かう。
菊二郎の傍らに座るハギが、紋付を着た隣のご婦人と、楽しそうに、笑った。
「そろそろ危ない」
笠をかぶり蓑で全身を覆った男が、山の方から駆け下りてきて、笠松家の者に伝えている。
宴もそこそこに、皆が浮足立つ。
いよいよ“その時”が近づいているのだとヤエは悟った。
「お輿入れのときにございます」
支度を促された時と同じ使用人の女性が、ヤエに声をかけた。
紋付の着物に身を包んだ父と母に先導され、ヤエは近くの大川へと向かう。ヤエたちの後ろには、笠松家が檀家となっている寺の和尚が、絶えずお経を唱えながら続く。
川縁に着いてみれば、想像したよりも大川の水量は少なく、流れは急であったがヤエでもなんとか渡れそうな様子だった。
ヤエは、花嫁草履を川岸で脱ぎ、丁寧にそろえて置く。川に足を一歩踏み入れてみれば、八月だというのに水が冷たくて一瞬怯む。一歩進むごとに足が震え、また川面の高さは腰ほどだというのに、流れが強いせいでうまく進めない。数人の男性に支えられながら、やっとの思いでヤエは中央付近の橋脚まで進んだ。
橋脚の下にたどり着くと、男たちはヤエの身体に縄を何度か回し、しっかり固定した。腕も縛っておきたいかと尋ねられたので、首を横に振ると肩から先は自由のままにしてくれた。固定し終えた男たちは手を合わせ、深くお辞儀をしてから川岸まで戻っていった。
ヤエは、じわりじわりと襲ってくる恐怖で唇が震えた。先ほどまであんなに楽しげにしていた妹の大きな泣き声が耳に届く。川岸の方を見やると、妹を抱きしめたまま不安そうに眉根を寄せる兄や、泣き崩れる母、睨めつけるように目に力を入れた父の顔が見える。
そして、人垣の間から真っ赤な目でこちらを見ている菊二郎の姿が目に入った。ヤエは、その愛しい姿を決して忘れまいと、目に焼き付けるようにじっと見つめる。
自由を残された両の腕を胸元にやり、柘植の櫛を大事にそっと取り出す。細かい桜の飾り彫りは、どれだけ見ていても飽きそうにない。ヤエは片方の指で桜をそっと撫で、また大事に襟元へしまう。
そのときだった。遠くの方より轟音がとどろく。
突然、川の水位がぐわりと上昇し、一息にヤエの胸元まで水面が迫る。ヤエはとっさに、菊二郎の櫛が収まっている胸元辺りを両手で押さえる。
それは、あっという間のことであった。
数度の瞬きののち、あらゆる瓦礫を大量に巻き込んだ濁流が、勢いよくこちらめがけて流れ込んでくるのが見えた。
灰色の、渦を巻くように迫りくる大川の濁流は、まさに猛り狂う龍そのもののようである。
「来世で……来世で必ず菊二郎様と会えますように」
ヤエはぎゅっと目を閉じ、強く祈る。
「大丈夫、必ず菊二郎様を見つけてみせる。そして私は今度こそ、菊二郎様と一緒になれ……」
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「がはっ」
ヒネは、水底から命からがら浮上したかのように、ようやく呼吸ができて、目を開けた。
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