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嫁入りが決まった夜

 笠松家の大奥様は、嫁ぐ前はふもとにある里の、大豪商の娘であったという。いきさつはよく知らないが、大奥様は珍しく笠松家の親類縁者ではないらしい。そのため、嫁いだころより、この“お嬢様”に皆が気をつかっているようであった。

「気位が高いものだから、少しのことでも大げさに騒ぐのよ」と、女中の一人が愚痴をこぼしているのをヤエは聞いた。

 このたびの件も、蓋を開けてみればただの捻挫であったが「かような有事であるため、分家の者に手伝いを申しつかわすべきではないのか?」と本人自ら家長である息子、つまり菊二郎の父に意見したため「ならば……」というわけで、ヤエが呼ばれたのらしい。

 笠松家の大奥様はたしかに気位が高かった。事あるごとにさまざまな要求や、それに伴う指摘をヤエは受けた。だがヤエは、少しも苦痛に感じることはなかった。

「婆様の申しつけだね。大丈夫? また無茶なことを言われてないかい」

 昼前、ヤエが雨の降りしきる軒先のきさきに立って朝顔を摘んでいると、出くわした菊二郎に声をかけられた。笠松の本家に来てからというもの、こうして毎日のように、ヤエは菊二郎に声をかえてもらえている。

「大丈夫でございます。大奥様には本当によくしていただいて」

 笠松家に来てから三日も経つと、ヤエは緊張が解け、菊二郎と普通に話せるようになった。一日に一度だけであっても、こうして菊二郎と言葉を交わせる時間が、顔を見られる瞬間が、ヤエには本当に貴重だった。大奥様の無茶な要求や小言ですら、笑顔で受け止めずにはいられないほど、幸せな時間に感じていた。


「何か礼をしたいのだが、所望するものはあるかい?」

 約二週間にわたる大奥様のお世話を終え、帰宅する日を迎えた、その朝のことである。朝餉あさげをすませ、帰り支度を整えているヤエの元に菊二郎が尋ねてきた。

「お礼だなんてとんでもないことでございます」

 そう言って正座をしたまま、ヤエは膝の前に手をついて深々とお辞儀をした。

 深く上半身を倒したせいで、胸元からつげの櫛が落ちる。長く使い込んだせいで黒ずみ、所々歯の欠けたみすぼらしい櫛である。

「それは……なかなかに年季の入ったものだね。ずいぶんと使い込んでいるようだけど、誰かからもらったもの?」

 菊二郎が問う。

「いえ、これは昔、縁日で買ったものでございます。あちらこちら歯が欠けてしまい、そろそろ買い替えねばと思ってはいるのですが……」

 ヤエはそう言いながら、恥ずかしそうに櫛を懐に戻す。

「お礼など、遠慮させていただきます。私は菊二郎様と……いえ、菊二郎様に都度気にかけていただけただけで、十分によくしていただいたと感謝しております」

 そう言って菊二郎の目をまっすぐに見つめた。心臓が、口から飛び出すのではないかと思うほど大きく鼓動していたが、しばらくはまた菊二郎の顔を拝むこともできない。ヤエは、自分の目に焼き付けておこうと菊二郎をしっかり見つめた。

 菊二郎の目に温かな光を見つける。

「ああ、ここにずっと住めたらいいのに」ヤエは口にできるはずもない想いを呑み込んで、降り続く雨の中、家路についた。



 それから数日経ったある晩のことであった。

 降りしきる雨の中、どこかへ出かけていた父が戻って来た。少し沈んだ様子の父が気になったが、父が帰宅したのを合図にヤエたち家族は夕餉ゆうげをとることとなった。

 ほとんど食べ終えた頃合いをみて、父が口を開く。

「実はな、ヤエ。今しがた、本家の方へ行ってきたのだが、その……なんだ。お前の縁談が、決まった」

 言いにくそうに父が言葉を紡ぐ。だがヤエの心臓は跳ねあがり、沸き立った。

 今……たった今、父は“本家”と言っただろうか? 本家でヤエが縁談を結べる相手となれば一人しかいない。そう、それはつまり――


「龍神様だ」


 母と一つ年上の兄がはっと息をのむ。だがヤエは、しばらく意味が理解できず、呆けたように固まっていた。

 果たして、菊二郎様はいつから「りゅうじんさま」などと呼ばれていただろうか? などと見当違いなことすら考えていた。

「龍神様って?」

 まだ年端もいかない妹が、両親や兄を交互に見ながら問う。うつむきがちに優しく妹を引き寄せる兄の姿を見て、ヤエはようやくはっとする。


 龍神様――この地を守り、おさめているとされる神


 その方との縁談。それはすなわち、神の怒りを鎮めるために差し出される御供ごくである。

 ああ……と、ヤエは心の中で自嘲する。

 そうだ、そんなはずなどないのだ。自分が、菊二郎様の元へ嫁げるなど……そんなことがあるわけない。自分はいったい、何を期待していたのだろう。


挿絵(By みてみん)



 山の反対側の村が、決壊した川に押し流されたのは二日前のことである。村人の大半が川に飲まれて行方知れずになったと聞かされた。一週間ほど前には隣の山が地滑りを起こし、やはりふもとにあった小さな村が押し流されたと聞いている。

 この村も、もう時間の問題であった。



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