憧れの「旦那様」
突然、空を噛み裂くような音でヒネは目を覚ます。
遠くの方で、ゴロゴロと天を駆ける音が聞こえた。ここ最近の、いつもの爆発音ではない、雷だとヒネはわかる。
身体が重い……。
意識だけで宇宙船に行ったのだ。覚悟はしていたが、まだ当分は起きられそうにないと自覚する。
再び溶け始めた意識は、おぼろげな輪郭を作り、ヒネを深い眠りの海へと誘っていった。
――――【龍神の花嫁】―――――
鍬で起こした土の中から、一匹の蜥蜴が飛び出し、滑るように走ってどこかへ消える。その姿を見送りながら、ヤエは鍬の先を土に入れたまま、腰を伸ばした。見上げた空は、青い面積をいくらか残し、厚い雲が占拠しようとしている。
「ひと雨来そうだな……」
同じ空を見上げた父が、呟くように言った。
「ちょうどいい、茶にするぞ」
父の合図で、兄が振り返った。
畑から自宅までは、そう遠くない。
藁葺き屋根の下、開け広げられた粗末な戸口が見えたとき、中から近所に住む中年女性が出てきた。家長の父に会釈をしてから、ヤエのほうを見て意味ありげな笑顔を作り、そのまま自宅の方へ去っていった。
「また縁談か、好きやなあ、あの人も」
一つ上の兄が、ボヤくように言った。
「隣村の村長さんのお孫さんやて。無口なお男らしいんやけど、働き者で真面目や、言うとったわ」
家に入るなり、上がり框に残されたままの湯呑を片付けながら、母が父に説明をしている。
ヤエは、縁談が自分に持ってこられたものだとわかったが、知らぬ顔を決め込んで、お手玉で遊ぶ幼い妹をかまいはじめる。
「ヤエも、もう16やけんねえ。早いとこ縁談をまとめんと、あっという間に行き遅れるえ? なんて脅すんよ。あの人、縁談まとめるのが好きやけん、ほんと」
愚痴のような文脈で言葉を紡ぐ母は、しかし楽しそうな様子である。ヤエにくすぐられた妹が、きゃっきゃと笑って三和土から外へ出ようとした時だった。
――ドドーン
突然、空から落ちた雷にびくりとして足を止めた妹は、すぐさま振り返ってヤエの太もも辺りに顔をうずめた。途端に外は土砂降りとなって、土ぼこりの香りが家の中にふわりと漂った。
「菊二郎様んとこにも縁談は来とるんやろか」
ヤエは、降りしきる雨をながめながら、ふと思った。
菊二郎は、本家の次男坊である。
ヤエの家は、この辺り一帯の大地主である笠松家の遠い分家であった。分家といっても、曾祖父の代から本家とは別れているため、菊二郎とは殆ど他人も同然だ。それでも冠婚葬祭があれば手伝いに駆り出され、祀りごとの際は何だかんだと用を仰せつかるため、本家の者の顔はよく知っている。
菊二郎はヤエより四つ歳上で、今年で二十歳を迎える。
気性が荒く自分勝手な兄の泰之介に比べ、菊二郎は温厚で細かい気配りのできる人物であった。
家督を継ぐことが決まっていた泰之介は、前の年、すでに結婚している。だが三つ歳の離れた弟の菊二郎には、まだ決まった相手がいないのだと聞いている。
昔から、よそ者の血を嫌う笠松家は、遠い親類縁者から嫁をもらうことが多かった。現に、跡継ぎである泰之介の嫁も、山を二つ越えた先にある遠い分家から迎えたのだという。つまり、菊二郎の花嫁候補についてはヤエにも十分可能性があるということだ。
ヤエは、母が今話している縁談が、うまくいかないようにと密かに祈った。
「今年は雨が多いなあ」
一通り母の話を聞き終えた父が、淹れてもらったばかりの茶を一口啜りながら言った。
「ええんやない? 今年も日照りぃやったら、かなんわ。冬場くらいは、ゆっくりしたい」
兄が不貞腐れた顔で、同じく茶を啜る。日照りの年は、冬場に出稼ぎに連れていかれるものだから、不満なのであろう。
ここ数年は、どちらかといえば日照り続きであった。久しぶりの豊富な雨量に恵まれた今年は、誰もが安堵し、この辺りに祀られる龍神様に感謝した。
ところが、七月の後半に入っても雨は収まる気配がなく、上流の山肌がぬかるみ始めた今では、大人たちの口から心配する声がちらほら聞こえるようになった。
七月も終わりに差しかかったころ、本家からヤエの家に報せが届いた。
「そこまで大した怪我じゃない言うとったけど、祭りが近いけん、人手が足りんのらしい」
父が、本家の者から聞いた話をなぞって話す。ぬかるんだ庭先で、滑って転んだ本家の大奥様が、足を痛めたせいで動けなくなったとかで、そのお世話役をヤエに頼めないかというものだ。
「そこまで長くはならんやろ。ヤエ、悪いけど行ってくれるか」
ヤエは「かまわんよ」とだけ言って、にやけそうになる顔を父から隠した。
「粗相のないように、しっかりやるんよ」
心配そうに声をかけてきた母に「わかっとるよ」と、声が高くならないように気をつけながらヤエは答えた。
――菊二郎様に会える
翌日の朝が、ヤエは待ち遠しくて仕方なかった。
「本当に、たいしたことではないのだよ。でも婆様は、まったく育ちがよいものだから」
翌朝、笠松家の玄関口でヤエを出迎えてくれた男性が、苦笑しながら言った。
ヤエは、その顔を見たとたん、恥ずかしさと緊張のあまり、顔を伏せる。震える声で、なんとか挨拶だけは口にする。
「あまり気負わずとも楽にしてくだされ」
耳心地のよい優しい響きの声で、そう言ってくれた男性の顔を、恐る恐るヤエは見上げる。
そこには、幼いころから憧れてきた菊二郎の顔があった。
ヤエが履物を脱ぐのに手間どっていると、そっと手が差し出された。菊二郎の大きな白い手である。目を上げると、菊二郎の優しいこげ茶色の瞳に自分の顔が映り、思わず息をのむ。
慌てて目を伏せたヤエは、脱いだ履物を急いで端の方へそろえてみたが、気がつけば今度は、先ほどまで傍らにあったはずの荷物がない。
辺りを見回したあと、目の高さに自分の荷物を見つける。ヤエが持参した荷物は、菊二郎の腕の中にあった。
「そんな、旦那様! いけません」
思わず口にして、だがヤエは「しまった」と思う。とたんに菊二郎が声を上げて笑った。
「私はまだ、どこの家の“旦那様”でもないよ」
ヤエは、顔から火が出る。耳の辺りまで熱さでしびれる感覚がして、いったい何を言っているのだろうと、自分を責めた。
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