おつき星
尾が付いてからというもの、彗星は、その大きさを日に日に膨らませていくように見えた。
一方で「今日の尾は上向きか」「なんだか移動する速度が落ちてきたのではないか」と、巷間では話題に事欠かない。
「さっき、左官職人の仲間から聞いたんだが、『おつき星』の尾が、今日は消えているらしい」
夕刻、食堂へと向かう途中でヨヲセが言った。
横を歩いていたヒネは「ふふ……」と笑う。そして「今やすっかり『おつき星』の名が定着してしまいましたね」と、続けた。
件の彗星は「おつき星」と、誰からともなしに呼ばれるようになった。
これは単純に尾が付いているから「尾付き星」とされたのが主な由来だが、中には災厄をもたらす「憑き星」だと言ってのける神呼や、あれは惑星パムゥにお供するためにやってきた「お付きの星」だと面白おかしく吹いて回る語り家もいた。
いずれにしても、今やすっかり「おつき星」の愛称で、定着してしまったようである。
食堂に入ったヒネは、窓辺にできた人だかりに何事だろうかと思い、近くまで寄ってみた。そこで、「おつき星が何やらおかしい」という声が漏れ聞こえたので、ヒネも皆の視線を追って窓の外へ目をやった。
おつき星は、肉眼で見えるようになった最初のころ、宵のヒニシの空に現れては間もなく地平線へと姿を消していた。ところが、その大きさを増すにつれて、昼間でもうっすら見える日が増えた。直近では昼ごろにヒガシの空から上り、宵のころに南中して、夜半過ぎにヒニシの空に沈む。
発見当初は、彗星に尾が付き始めてからは、数日で星座をまたぐほどの移動速度になるだろうと予測されていた。しかし、実際に尾がついてみれば、まるでラーヨウの軌道をたどるかのような規則的な動きをしている。そして、速度を上げるどころか、毎日少しずつ遅い方にずれていくようであった。
その名の由来となった尾も、日によって角度を変えたり長さを変えたりしていた。しかし、尾が見えはじめてから十日と経っていない今夜、「おつき星」の尾が消えてしまった。
今や、おつき星の大きさは、ラーヨウをはるかに超えるまでに膨れ上がっている。
また、関連があるのかは不明だったが、数日前から「おつき星」が中天に差し掛かるころ、激しい雨が降るようになった。巷で「おつき星」を「憑き星」などという者が現れたのも、このせいだ。
ヒネが見上げた宵の空には、異様な光景が広がっていた。
窓の向こうのおつき星は、赤みを帯びた白色で、輪郭のはっきりしない、ふくよかな杏仁の形をしていた。
しかし、何より異様だったのは、おつき星をとり巻くように揺らめく薄赤い靄のような“何か”である。その光景はまるで、宵闇に滲んだ血の中をおつき星が揺蕩っているかのような、不吉さえ感じる不気味なものであった。
それからいくらも経っていない時刻のことである。突然、空を割るような爆発音が轟いた。まだ食堂にいたヒネは予期せぬ爆発音に驚いて、持っていた箸を落としそうになる。皆が慌てて窓の方へ駆け寄るので、ヒネとヨヲセもそれに続いた。
窓辺に着くやいなや、おびただしいほどの雨が天上から降り注いだ。その雨量と勢いは、かつて経験したことがないほど激しく、大地をえぐるのではないかといった凄まじさである。
だが本当に驚嘆したのは、そこではない。窓越しに空を仰いだヒネは、その光景にぎょっとした。
これほどの雨が降り注いでいるというのに、らんらんと星が瞬いているのだ。空には雲一つ見当たらず、いったいどこから雨が降っているのかとヒネは困惑する。
「こんなことってあるのか?」そう言って見上げるヨヲセは、どこか面白がって見える。
しかし、ヨヲセの肩越しに空を見上げる女性は、両手で口元を覆い、青ざめた顔でおつき星を凝視していた。
地を刺し抜くような豪雨と激しい爆発音はその後も続いたが、夜半に差し掛かるころになって、ようやく落ち着いた。
しかし、翌朝になってわかった被害の実態は、想像以上に深刻だった。
昨晩の豪雨により、大陸中で多くの地下街に水が浸入し、特に地下深くにある家々は浸水した所もあると大々的に報じられた。また巨大生物に及ぼした被害も小さくなく、矢のような雨に打たれたせいで、息絶えてしまった個体もいくつか見つかったという。
カダも朝から対応に追われていたようで、ヒネが目覚めたときにはすでに、今朝の報告は不要とする旨の連絡が入っていた。
朝になっても雨は降り続いていたが、昨夜とは違い、空は厚い雲に覆われている。
食堂では、やはり昨晩の話題で持ちきりだった。ヒネが一人、食堂で朝餉をとっていると、どの卓からも聞こえてくるのは昨日の爆発音と大雨、そして各部署が握る被害の状況についてだった。
そのときである。ヒネのこめかみに埋め込まれた電子機器が、連絡文書の着信を知らせた。
ヒネが脳内でそれを開くと、文書の送り主に、懐かしい名前を認めた。




