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もう一つの人生③

 気がつけばジンナは、その年、53歳となっていた。


 3年前に父が亡くなり、今年の初めに母が亡くなった。

 実家に移り住もうかとも考えたが、広い実家に一人で暮らすより、家を売ってアパート暮らしをする方が金銭的にもいいだろうという結論に至った。何より、実家を売ったお金で借金完済の目途が立つ。

 実家を売りに出すことに決め、家の中の不用品を引き取ってもらった帰りのことである。

 気がつけば季節は春で、その日は朝から天気がよかった。ふと近所に桜の綺麗な公園があったことを思い出したジンナは、回り道をすることに決め、その足で公園へと向かった。


挿絵(By みてみん)


 公園一帯を覆う柵の外で、ジンナは青葉混じりの散りかけた桜を眺めながら、何とはなしに公園の横を見やる。すると視線の先に、昔には無かった法律事務所ができていることに気がついた。

 事務所の壁に添うように「法槻(ほうつき) 司(つかさ)法律事務所」という看板が掲げられている。ジンナは思わず「あっ」と声を上げた。

 その昔、ジンナがまだ幼かったころに好きだった男の子の顔が脳裏に浮かんだ。そういえば以前に一度だけ、勤めていたキャバクラに来たことがあったかしら……。ジンナは、すっかり大人になった司の横顔をうっすら思い出す。

 突然強い風が吹き、道路に散り積もっていた桜の花弁が方々で舞い踊る。

 このままこんな所にいて、また司くんが奥様と仲睦まじく歩いている場面にでも出くわしたら嫌だなーーそんな思いがわいたジンナは、顔を伏せ、急ぎ足で駅へと向かいはじめた。

「もうこの公園に来ることはないわね、きっと」ジンナはそう思い、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。



 それから数か月と経っていないある夜のことである。ジンナはその日、スナックのアルバイトを休んでいた。

 朝から頭が痛いのだ。

 季節はすっかり春から夏へと変わりつつあるのに、なんだか今日は寒いような気さえする。

「歳かしら……」

 ジンナは独り言をつぶやいて、昼からつけていたエアコンを消した。先ほどまでうるさかったエアコンの吹き出し口が急に静かになり、部屋の中が静まり返る。

 数年前に保護猫団体から引きとった愛猫が昨年の冬に永眠した。引きとったときから老猫だったため、長くは一緒にいられないとわかっていたがやはり寂しい。

「また新しい子をお迎えしようかしら……」ジンナはそう思って、やはり朝から痺れる足をさすりながら、独り薄布団に潜る。

 体を横にすると、テーブルの上に無造作に置かれた督促状が目に入り嘆息した。口座引き落としにしている水道料金が残高不足で引き落とせなかったらしく、督促状が届いていたのだ。たしか期限は明後日だったはず。

「明日はまず水道料金を支払って……」漠然とした明日の予定を、ジンナは頭の中で確認する。明日はスーパーのパートが休みなので、昼から起きて行動しても間に合うだろう。

 頭がまたズキンと痛む。

「明日はスナックのバイト、出られるかしら……」そんなことを考えながら、その夜、ジンナはそっと目を閉じた。


 独り寂しく布団に横たわるジンナを、うるさいほどの静寂だけが優しく包む。


 横になってみれば、ズキズキとした頭の痛みがいっそう強くなったように感じる。

 何度か身じろぎをし、右へ左へと寝返りをうっていると、そのうち少しずつ意識が解けていくような感覚を覚えはじめる。


 永遠に明けることのない夜のとばりに、ジンナは身を預ける。

 まぶたの裏で舞い散る桜は、幼いころに大好きだったあの子と一緒に眺めた、いつかの美しい桜だ。

 ジンナはその幻想的な光景を、いつまでも、いつまでも、飽きることなく眺めていた。


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