恐ろしくて開けられない扉
「これはいつからあるのでございましょう」
ヒネは口を布で覆い、ゴミ用と決めた長い箸と布袋をそれぞれの手に持って、ガルシャの部屋を掃除している。
長い箸の先でだらりと垂れ下がる真っ黒な布切れを眺め、ヒネはため息をつく。最初は、何か動物の死骸ではないかと怯えたが、つまみ上げてみれば、何のものとも知れないただの布きれであった。ヒネは顔をしかめ、布袋の中へそれを放り込む。
ガルシャの元で修行を許されたとはいえ、ヒネは神呼見習いの仮候補だ。カムイクジナにいたところで職務などあるはずもなく、また修行といってもガルシャに言い渡されたのは「当面は己の心を、寸分の暇もなく観察せよ」というものであった。
そんな簡単な……と最初は落胆すら覚えたものの、すぐにそれは、かなり難易度の高い技だと思い知らされることとなった。意識を集中したところで、気がつけば何かを勝手に考えていたり、我を忘れてぼんやり放心していたりするのだ。一瞬の隙もなく一日中自分の心を観察するなど、ヒネには到底不可能なことのように思われた。
一日中何もせず、ただ自分の心を観察しているだけだと、徐々に心が澱んでくるような気さえしてくる。やむなく、ここ数日のヒネは、ガルシャとヨヲセが寝起きする、ゴミ屋敷と化した家を掃除していた。
土を踏み固めただけの土間の隅に落ちているさまざまなゴミは、得体の知れない塊となっていた。しかし、一つひとつをあらためてみるとボロボロの衣だったり、かつては食べ物の皮だったと思われる繊維のクズだったりする。
部屋の隅にある唯一の水場には、いつから積みあがっているのかわからない食器類が置いてある。ヨヲセは、ここで食器と食器の隙間を利用して、器用に歯を磨いたり顔を洗ったりしているようだが、ガルシャにいたっては顔を洗っているのかすら不明だ。
ヒネは目立つ所から掃除をはじめ、一日中頑張ったおかげで、いくらかは人の住処らしい様相を取り戻してきたように思う。
ヒネは天窓を見上げ、だいぶ日が傾いてきたことを確認する。
パムゥの人々が住む家はたいてい地下にある。そのため、家の中を明るく照らしてくれるのは、天井や壁に取り付けられた電灯であることが一般的だ。しかしあまり深い場所に作られていない家の場合は、大きな窓を天井に設え、日中は自然光が入るように設計されたものも多い。
かつてヒネが住んでいた実家もそうであったし、ガルシャの家も天井には大きな窓がある。
このガラスは非常に硬度があり、たとえ巨大生物が乗っても割れないほどの耐久性がある。その耐久性は左官職人の技術によって実現されるものだ。そうなると、この家の窓ガラスはヨヲセが補強しているのだろうかとヒネはなんとなく考える。
季節はまだ寒い日が続いているが、今日は天気がよくラーヨウの光が温かくて気持ちがいい。
ヒネが洗った皿をしまうため、棚の中を拭いているときだった。
突然、部屋の中に影が差す。
影は滑るように動き、ヒネは部屋ごと飲み込まれるような錯覚を覚える。驚いて窓の方を見上げれば、まさに巨大生物の大きな頭が、下からせり上がるところであった。
次いで、ドーンという大きな音とともに、窓の上に巨大な足の裏が落ちてくる。もう一度ドーンと、今度は窓ではない天井の別の辺りから音が響く。
ヒネは腰を抜かした。その場にへたり込み、体が硬直して動けない。
すぐに窓の上の足が持ち上がったかと思うと次はその少し先、窓と天井の継ぎ目付近に後ろ脚が下りる。わずかな時間であったが、ヒネには永遠とも思える時間に感じた。
足音は少しずつ遠ざかっていったが、ヒネの心臓はうるさく鼓動したままであった。
辺りはすっかり赤褐色に包まれ、もうスベラギの塔に戻らねばならない時間だというのに、ヒネは一向にガルシャの家を出られずにいた。先ほど見た巨大生物がまだ近くにいるのではないかと思うと、どうにも外に出るのが恐ろしいのだ。
ヒネは扉に近づいては部屋の中に戻り、また扉に近づいてはと踵を巡らしていた。
辺りは暗くなりかけている。夜になれば危険が増すばかりだ。覚悟を決めたヒネが扉に手をかけたときだった。
勢いよく扉が開き、突然現れた人影にヒネは思わず声を上げた。




