どうか忘れないで
「来世で……」
ヨヲセは胸に抱いていた華奢な身体をようやく放し、ヒネの頬に手をやると、視線を逸らしながらつぶやいた。
「え?」ヒネは聞き返した。
「私も、ヒネが夢の中で見る惑星を見てみたいと思ってさ。青い空と海の星だ。修行の一環として、よく魂の泉をたどっていたんだ。ときどきババ様の手も借りて……」
ババ様とは、亡き師匠のガルシャである。
「何度か成功した。あの星の人たちの思想は独特だよな、ヒネはすでに知ってるかもしれないけど。中でも笑っちゃったのが、人は死んだら生まれ変わって、別の人生を歩むって信じてることだ。輪廻転生?っていうらしい。」
ヨヲセはヒネから目を逸らしたまま、どこでもない宙を見ている。先ほど、自身で泣くなと言っておきながら、今にも涙がこぼれそうなほど目が潤んでいる。
「それでさ、真剣な顔で『来世で迎えに行く』とか言ってんだぜ? バカだよな、来世なんてあるわけないのに……って、そのときは思ってたんだけど」
その思想なら、ヒネにも心当たりがあった。
先日視た「肉の夢」である。
好きな人と結ばれる夢も叶わず、川に住まう“龍神”という精霊の妻とされ、柱に縛られ命を散らしていった少女の記憶だ。荒れ狂う濁流を前に、生まれ変わった先の世では、好きな人と結ばれることを切に祈っていた。
「だけど、今は思うんだ。あるわけなくても、その発想は悪くないって」
ヨヲセの言葉に、ヒネは伏せていた目を上げる。そこにはいつもの、屈託のないヨヲセの笑顔があった。
「私も、そう思います」
ヒネは、目を細めて答えた。
そうだ、「人は亡くなれば自我が薄れ、しだいに個を失っていく。やがて魂の泉へと還れば、またすべての魂と溶けあって一つに戻る。だから前世も来世もないのだ、ただ与えられた今ある魂を、精一杯生きよ!」それが、シュバウル人から長く受け継がれてきた英知の一つだ。
だが、それが本当なのだと証明する術はない。シュバウル人だって、生きている者は皆、まだ一度も死んだことがないのだ。前世がない、来世もないなど、どうして言いきれよう。
「そろそろ行かなきゃ」
ヨヲセが、まだぐっしょりと濡れたままの衣に、帯を締め直しながら静かに言った。髪の毛はすっかり乾いたというのに、この土砂降りの中をまた引き返すのか。
「私はこのまま飛行艇乗り場まで行かなきゃいけない、塔まで見送ってやれなくて、ごめんな?」
ヨヲセの優しい言葉に、ヒネは「構いません」と首を振ってから言った。
「ならば……来世で。来世でまた、お会いしましょう!」
ヒネの言葉に、雨具を手にしたヨヲセは、驚いたように目を丸くする。しかし直後、声を上げて笑い出した。ひとしきり笑ったあとで
「そうだな、うん! じゃあ、また来世で!」
ヨヲセも軽い調子で手を挙げて、白い歯を見せながら笑って答えた。
それは儚い望みかもしれない、あるいは刹那の戯れだろうか。
それでもこのときだけは、どうか忘れないでと祈る。
そして叶うなら、再びの世がありますようにと、見えない何かを手繰るように願った。
きっと、こうやって「神」は生まれるのかもしれない、ヒネはふと思う。なぜなら、このときたしかに、ヒネは自分の中に、神なる存在を認めていたのだから。
扉を開ければ、いまだおさまる気配のない土砂降りの壁が出迎える。戸口に立って、ヒネはヨヲセを送り出した。
かけた声など到底届きそうにない半狂乱に轟く雨を背に、ヨヲセは一度だけ振り返り、旅立っていった。
思えばいつも明るく、ラーヨウ(太陽)のような青年であったと、ヒネは前だけを見つめて思い返す。
「どうか生き抜いて…」
いつの日か、魂の泉をたどった誰かが私の記憶をのぞいたとき、必ず彼を思い出してもらえるようにと願い、ヨヲセの人懐こい笑顔と鮮黄色をほとばしらせる碧の魂を深く胸に刻む。
ヨヲセの姿が見えなくなってもしばらく、降りしきる雨の中へと消えていった兄妹弟子との……大切な人との想い出を、ヒネは静かに見送っていた。




