あなたを迎えに
ヒネは、木製の椅子を引いた。ガルシャの家の椅子には何度か座っている。しかし、ヒネの記憶の中の椅子は、これほど重たかっただろうか。同じものとは思えない。
ヒネだけではない。
今やパムゥの全土で、ろくに食事をとっていないにもかかわらず明らかに増え続ける体重と、あらゆる物が重たくなる現象に、人々は戸惑い狼狽している。呼吸困難を訴える者も続出し、医療機関はもはや用をなさないと、今朝の日報が伝えていた。
「この家にも、お別れを告げたく参りました」
そう言って、ヒネは天窓をあおぎ、今は亡き家主に報告するように言った。
ミナナミが海の底に沈んでから、あっという間に半月以上が経ってしまった。
最初に爆発音が夜空に轟いた日から、雨は一日も止むことなく降り続いている。天窓に叩きつけられた雨が、小さな川を作り、その流れに翻弄されるように一枚の葉っぱが流れていくのが見えた。
それより遥か上空に立ち込める厚い雲の下を、一機の飛行艇が滑るように飛んで行った。
ヒネはため息をつき、目の前の椅子に視線を戻すと、重い体を座面に預ける。
わずかしかない大型船は、すでに各港を出航し終えたと、数日前の日報で確認した。急ごしらえで造船された小型から中型の船ですら、乗りこめたのは全人口の3分の1にも満たなかったらしい。
あぶれた人々の救済措置として、なるべく高い山頂付近に飛行艇を使って運んではいるが、すべての人間を運び終えることなど到底できそうにない状況だと聞く。
微かな望みをかけ、葦を束ねて造った船で多くの者が海原にのぞんでいるらしい。しかし、もともと海に縁の無かった地下住まいのパムゥ人が、降りしきる雨の中を、手製の小舟で逃げ延びる望みはいかほどだろうと、ヒネはもう一度ため息をもらす。
【今やスベラギの塔は倒壊の危機にありて候。各々、大切な人の元へ戻り、何としても生き延び給へ】ヒネの脳内に、スベラミコト名義の通達を報せる音が響く。ここ数日、日に何度となく受け取っている馴染みの文言だ。
一時期は簡易的な避難所として開放されたスベラギの塔も、間もなく危険な状態であると判断され、今や職務にあたっていた塔の住人ですら3分の1以下に減っている。
「ヨヲセは今、どこにいるのかしら」部屋の隅に設えられた脚の付いた寝床をヒネは見やる。ガルシャが亡くなった後も、この家とスベラギの塔を行き来しているはずのヨヲセだが、最近その姿を見ていない。
突然、勢いよく扉が開き、ヒネはびくりとした。家の中に駆け込んできたのは、ヨヲセだった。
「ヨヲセ! ちょうど今、ヨヲセのことを考えていたところです」
ヒネは、明るい声でヨヲセを迎え入れる。しかし、ぽたぽたと髪の毛から水を滴らせたヨヲセは、驚いた様子もなくヒネを見つめた。かろうじて雨具は身に着けているものの、雨具と一体になった頭巾は用をなさなかったようだ。
「ああ、うん。私も、ヒネがスベラギの塔にいないようだったから」
厚手の手巾を手に、慌てて駆け寄ったヒネは、ヨヲセの濡れた髪を拭いてやる。
「もしかしたらここかと思って……おかげでこの通り、ずぶ濡れだ」
ヨヲセの声音がいつもと違う気がして、ヒネはヨヲセの顔をのぞき込む。家族を失ったあの日、絶望の淵にいたヨヲセだったが、翌日には職務に戻っていた。それからは、少しずつ、いつものヨヲセに戻っていたようだったのだが――
全身を覆うように着込んでいた雨具を脱いだヨヲセは、ヒネからそのまま手巾を受け取って、雨具で覆いきれず濡れてしまった部分を雑に拭く。
「私を探してくれていたのですか? 何かございましたか?」
ヒネは、別の手巾を用意し、思い切り背伸びをしてヨヲセの濡れた髪にまた手を伸ばす。どう見ても髪の毛が一番濡れていたからだ。
「うん……まあ」
ある程度、身体が拭けたところで、なおも手伝おうとするヒネを制しながらヨヲセは言った。
「送電塔、あるだろ? 大陸中に8か所……いや、今は6か所か。それで、送電塔のひとつに……アレしに行くことになった」
アレとは、おそらく左官の職務であろうとヒネは頭の中で補足する。ヨヲセは神呼でもあるが、同時に、発・送電塔の補強や補修を専門とする高所左官職人でもある。
8か所あった発・送電塔のうち、ミナナミにあった塔は、都市と共に海の中へと崩れ落ちた。また、「落葉の塔」と呼ばれている第8塔は、カダが倒れた日の翌日、やはり降り続く雨のせいで倒壊してしまったと聞いている。そのほかの塔も、今や補強や補修は急務なのであろうと、ヒネは自分自身で補足を加え、解釈した。
ヨヲセは、ポタポタと自分の髪から滴る水滴の、落ちる先を見つめた。
「それはよかった。優秀な左官職人ですもの、お声がかかるのは当然でしょう」
穏やかに微笑みながらヒネは言った。そして本心からよかったと思う。
――なぜならじきに、パムゥは沈むからだ。深い海の底へと
それだけではない。この惑星パムゥの全土で、すでに酸素は薄くなり、重力は明らかに増してきている。やがて呼吸をするのも困難になり、自重を支えることさえ厳しくなるかもしれない。そうなれば世界中どこへ逃げようとも、過酷な地獄が待っている。
しかし、ヨヲセのように屈強な肉体をもつ者であれば、あるいは……。どこか別の土地へ逃げられさえすれば、生き残る可能性は大いにある。ヒネは、ヨヲセには生きてほしいと心から願った。
「一緒に……来てくれないか?」
静かな声でヨヲセが言った。ヒネは少し驚き、目を上げた。
読んでいただき、感謝します。
投稿の励みになります、★★★★★で応援お願いします
↓(_ _)↓




