第七十話:会議の後の散歩と、帰り道の名前
出発前日の夕方、僕達は町を歩いた。
ただし、のんびり休日を過ごすという訳ではない。
食料の受け取りと、街道へ出る門の確認。
テトライルの仕事へ僕がついていく形だった。
「散歩だと思えば、散歩でいいよね」
僕が言うと彼女は少し考えた。
「遠回りはいたしませんが」
分かっていますよ。
騎士団長の休日は帰ってから。
今日はその予行演習の、さらに前の歩行である。
あんよが上手ってやつだ。
会議場の前を通ると、午後に床へ引いた線が見えた。
荷はその外側へ寄せてある。
誰かが通る場所が残っている。
ちょっとした改善行動への小さな成果だ。
少し嬉しくなった。
僕が見ていると、テトライルもそちらへ目を向けた。
それから何も言わず、歩調を少し緩めてくれる。
彼女は常に無言で僕を思いやってくれている。
本当にありがたい。
通りには荷車が並んでいた。
魚に似た匂いのする店。
穀物の袋を積んだ店。羽を通しやすい外套を吊るした店。
来た日は旗と兵ばかり見ていた。
今は店の台の高さまで目に入る。
カニス族の男性が、低い台へ袋を置いている。
レプス族の女性は耳を後ろへまとめ、積んだ箱の間を抜けた。
高い所の品を取る時は店の者を呼ぶ。
それぞれの身体で、それぞれに暮らしを回していた。
僕の身体にも、もう少し使い方があるのだろう。
ただし今は無理に右肘を試さない。
傷がないから何でも出来る、には戻らないようにしたい。
食料を受け取る店で、テトライルが包みを開いて確認した。
数だけでなく乾き具合も見る。
僕は横で札を読んだ。
「こっちは先に食べる」
「はい。雨が戻るようでしたら、保管場所を変えます」
雨宿りの間に覚えた事が、そのまま帰り支度になっている。
僕は紐の色を確かめた。
誰かに全部準備してもらった荷物でも、分かって持てば少し違う。
店の少年が僕の右手を見た。
しばらく迷ってから尋ねる。
「神様なの?」
テトライルの背筋が伸びた。
僕は口を開きかけた。
何と答えればよいのだろう。
違いますと言い切れば彼女が困る。
はいと答えたら、何か叶えてと言われそうだ。
エイリスの人達の話では、僕は女神様の関係者らしい。
そういえば、女神は本当にいたのか、シェリルに聞こうと思っていた。帰ったら今度こそ聞いてみよう。
「そう呼ぶ人もいるけど、僕はカイだよ」
少年は考えた。
それから包みを一つ渡してきた。
「じゃあ、これ持てる?」
持てた。
よかった。神様の最初の審査が重量級でなくて。
テトライルが口元を隠した。
僕は包みを鞄へ入れながら、少年へ礼を言った。
店を出てから、彼女が小さく尋ねた。
「お嫌でしたか」
神と呼ばれる事だと分かった。
僕はすぐ答えず、道の端へ寄った。
「呼ばれるだけなら、まだ慣れてない。でも、呼んでる人達を嫌だとは思ってない。実際、僕自身が神様って訳ではないし」
彼女は黙って聞いていた。
「出来ない事を出来るとは言えない。けど、出来る事まで何もしない理由にはしたくない」
少年が持たせてくれた包みの重さが背中にあった。
これなら運べる。
今の僕が確かめられる事は、それくらいだった。
テトライルは少しだけ頷いた。
「では、出来る事を一緒に増やしましょう」
よい先生である。
ただし宿題は多い。
帰ったら肉を食べる予定も忘れないようにしたい。
町の端に低い石壁があった。
その向こうへ道が二本伸びている。
僕達が使うのは片方だ。もう片方は今、荷車を通さないという。
門番が道の状態を説明した。
山側の見張りへ知らせ、途中の詰所でもう一度確認する。
テトライルは日程を急がず、行けない時の戻る場所も尋ねた。
僕は地図を見た。
来る時には、近い道と遠い道しかなかった。
今は水を飲める場所と、御車を止められる場所も見える。
全部ではないけれど、確かに少し変わった。
そこへオルネアが歩いてきた。
キリクもいる。
今日はちゃんと道から来た。もっとも、門に窓はない。
オルネアはテトライルと連絡の取り方を確かめた。
見えた物だけを報告する。
分からなかった場所を空白として残す。
会議で決めた事を、実際に誰が受け取るかの話だった。
僕は途中で、返事が届かない時はどうするのか尋ねた。
二人は同時にこちらを見た。
「同じ知らせを繰り返すだけでは、届かない理由が分からないので」
言ってから、自分でも珍しくまともな質問をした気がした。
オルネアは頷いた。
「次に確かめる相手を決めておきましょう。知らせがない事を、何も起きていない事にはしない為に」
テトライルが記録した。
僕は地図の余白へ短く書いた。
『返事がない時の相手』
疑問符の隣に、使える言葉が一つ増えた。
帰り道でネルダと会った。
トーニは鞄を二つ持ち、片方を代表から取り上げられかけていた。
自分が持つと言い張っている。
僕は見ないふりをした。
あのやり取りには覚えがある。
世界のどこでも鞄は過保護と自主性の戦場になるらしい。
ネルダは僕達へ道中の無事を祈ると言った。
僕もイーガへ戻る道が安全であるようにと返した。
彼女は一度、僕の顔を見た。
「こちらへ来る時には、知らせをください」
「はい」
「迎える用意をいたします。戦う方々だけでなく、休める場所も」
僕は礼を言った。
先陣を切る約束をした途端、戦う場所ばかり頭へ浮かんでいた。
戻って座れる場所も、用意する人がいるのだ。
トーニが小さく頭を下げた。
会ったばかりの時より、耳が少し上を向いている気がした。
帰る人達と別れ、僕達は宿へ向かった。
通りの角で乾いた葉が渦を巻く。
小さな歯車でもないのに、つい目で追ってしまった。
「回る物でございますね」
テトライルが言った。
「全部好きな訳じゃ……。風で書類が飛ぶのは嫌いだし」
彼女は笑った。
本当に少しずつ、冗談を言うようになった。
僕の方は、彼女の笑い声を聞く為に何か言いたくなる。
それは練習の邪魔にならない範囲でお願いしたい。
宿の近くまで来た時、門の脇でパンを抱えたカニス族の小さな男の子と目が合った。
僕が挨拶すると、少年は僕の荷を見た。
「それ全部持って帰るの?」
「うん。明日の朝にね」
少年はパンを抱え直し、僕達が通れるように脇へ寄った。
宿へ着くと、明日持ち出す荷を入り口の内側へ並べた。
土産は別にする。
資料は濡れない袋へ。
水は取り出せる場所へ。
僕が間違えずに入れたのを見て、テトライルは何も直さなかった。
理路整然、効率重視の騎士団長がだ。
そのまま留め具を閉じる。
地味だが、かなり嬉しい瞬間だった。
荷をまとめ終えると、テトライルが空いた紙を一枚僕へ渡した。
明日の出発前に確認する事だけを書くのだという。
僕は長い一覧を作りかけた。
水。食料。資料。土産。腕。足。返事。
最後の方は持ち物ではなくなっていた。
何だろう、僕は設定マニアで資料マニアの節があるな。
彼女は紙を読み、上から三つへ印をつけた。
「残りは私も確認します。一度に全てを覚えようとなさらず」
任せる事も準備のうち。
僕は頷き、紙を小さく畳んだ。
その後で彼女が自分の紙を取り出した。
僕の物より短い。
けれど、折り目の数はずっと多かった。
旅へ出るたびに使っているのだろう。
強いから忘れないのではない。
忘れないように何度も確かめている。
見習えるところが、剣の振り方以外にも随分あった。
窓から会議場を見る。
旗が一つ、外されていた。
陣営が順に帰り支度を始めている。
僕もここを去る。
知っている名前が増えた。
疑っていた人にも、待っている人がいると分かった。
僕はガルドから預かった割り札を、資料とは別の内袋へ入れた。
名を書いた紙も一緒にする。
旅先の出来事を、記憶だけに預けない。
「準備はよろしいですか」
テトライルに頷いた。
「うん。明日は帰ろう」
彼女は僕を見て、ゆっくり頷いた。
今度の帰り道には、話さなければならない事がある。
だからこそ無事に着きたいと思った。
その後、ガルドとセナが宿へ来た。
話は、門の脇にいたあの子の事だった。
街道沿いで保護されたカニス族の男の子で、六歳くらい。
自分の名前は本人にも分からず、引き取れる身内も見つからなかったという。
「今、俺達の街は鉄骸の対応に追われていて、あの子を安心して置いておける場所がない」
ガルドはそこで一度言葉を切った。
「エイリスの首都に寄宿舎があって、連絡をつけておいた。明日、あの子をあんた達の御車に乗せてもらえないか」
僕がすぐに頷かないのを見て、ガルドが眉を上げた。
「どうした?」
「本人は行きたいって言ってましたか?」
部屋の戸が指一本分だけ開いた。
廊下で待っていたらしい。琥珀色の目が僕を見た。
「行ってもいい。パン、自分の分を持ってっていいなら」
「いいよ。着いたら、また会いに行くよ」
「御車には一人分、席を空けられます」
テトライルがそう言うと、少年は戸をもう少し開けた。
ガルドは僕と少年を順に見て、書類を卓へ置いた。行き先の欄は埋まっていたが、名前の欄は白かった。
「じゃあ、ナギって呼んでもいい?」
少年はパンの包みを持ち直した。
「ナギ? どっから持ってきたの、その名前」
「僕の好きな村の名前。また行きたいと思ってるところ」
「……ナギ。うん。呼ばれたら分かる」
自分でもう一度言ってから、少年は僕を指した。
「あんたは?」
僕は人差し指で自分の顔を指した。
「カイでいいよ」
「カイ、うん。カイ。パン半分いる?」
差し出した方が小さかった。僕はそれを受け取った。
ガルドが少しだけ口元を緩め、セナへ書類を渡した。
僕は靴を揃え、明日着る上着を椅子へ掛けた。朝になってから慌てて探さなくてよいように。
それだけの準備でも、昨日より少し落ち着いて眠れそうだった。
窓を閉める前に、もう一度街道へ目を向けた。
あの白い地図の先にも、人が暮らしている。
その事を覚えたまま、帰りたかった。




