第六十九話:付き添い達の卓と、冷めない伝言
夕方、宿の広間でセナが靴の泥を落としていた。
床を汚さないよう布を敷き、小さな棒で溝を掃除している。
僕が足を止めると、彼女は壁際の椅子を顎で示した。
「そちらも、乾く前に」
自分の靴を見る。
泥がついていた。会場の裏でしゃがんだ時のものだ。
僕は隣へ座り、貸してもらった棒で靴底をつついた。
血刃様。
ここで出てきたら、靴と足のどちらが無事か分かりません。
本日も待機でお願いします。
セナは何も聞かなかった。
こちらも何か話さなければと焦らずに済む。
けれど僕が片方を終えた頃、セナはもう両方とも綺麗にしていた。
「先に大きな塊を取った方が早いですよ」
「細かいところから始めてた」
「見えるところを綺麗にしたくなりますからね」
責める調子ではなかった。
僕は棒の向きを変えた。
仕事の順番というものは、いろんなところで僕に立ちはだかる。
ラグドが広間へ入ってきた。
濡れた外套を掛け、長椅子へ腰を下ろす。
続いてキリクが窓から顔を出した。
「そこ、入口じゃないよ」
僕が言うと、彼は一度消えた。
戸口から入り直してくる。
「分かってる。人がいるか確かめただけ」
「なら先に声を」
セナの一言に彼は素直に頷いた。
強そうな人でも注意される。
僕だけがこの旅の指導対象ではなかった。
トーニは湯の入った器を二つ持ってきた。
足りない分をラグドが取りに行く。
誰が偉いかを決めなくても、卓の上が整っていった。
「代表の方達は?」
僕が尋ねると、セナは外を指した。
「見張りと連絡の確認です。ガルドは帰ってから先に寄る集落を決めています」
「ミレーネは荷の順番だ。置いていく物が増えた」
ラグドが答えた。
代表が座って話し、同伴者が全部働くのではないらしい。
役目の違いはあっても、やる事はどちらにもある。
僕は温かい器を持った。
テトライルは宿の係と明日の道を確かめている。
ここへ来てもよいか先に伝えたので、後で探し回らせる事はない。
昨日の宣言も、そういう順番で出来ればよかった。
小さな約束の方が、あとから自分をちくちく刺してくる。
キリクが僕の鞄へ目を向けた。
「一緒に来た騎士団長、食べる量が多いよな」
僕は反射的に頷きかけ、やめた。
留守中に人の食事量を話すのはどうなのだろう。
でも既に全員知っていそうだ。
「本人に聞けば、好きな焼き方まで教えてくれると思う」
「聞いた。外を強く焼くんだって」
早い。
僕が得た旅の小さな発見が、もう共有済みだった。
ラグドが笑い、セナは器を置いた。
「食べられる時に食べる。それは大事です。走った後に何も入らなくなる者もいます」
僕は目を落とした。
あった。空腹なのに飲み込めない夜が。
テトライルが汁だけ頼んでくれた事を思い出す。
トーニが、食べられない人用に柔らかくする方法を幾つか教えてくれた。
料理の話はすぐ物流の話へ変わった。
火を使える場所が要る。器を洗う水が要る。食べる間に座る場所も要る。
僕は器を見た。
ここまで運んでもらった温かさには、薪と水と誰かの手がついている。
その事を忘れないで話さないと、すぐ紙の上で何でも出来る気になりそうだった。
「みんな、代表と昔から一緒なの?」
キリクは首を振った。
各地を飛んで見た事を話せるから呼ばれたのだという。
セナも護衛だけではなく記録の照合が仕事だと答えた。
ラグドは使者として来る事が多い。
遠回しな言葉を普通に言い直すのが仕事だ、と本人は言った。
政治的な発言にはそれも必要だろう。
「善処します」と「可及的速やかに」それと「大変遺憾」だ。
「それ、代表の前でも言う?」
「言うぞ。分からんまま頷く方が怒られる」
僕は少し笑った。
ヴィンセントにも聞かせたい。
いや、あいつは僕が分からずに頷いた瞬間に気づきそうだ。
トーニは自分の眼鏡を拭いた。
呼ばれた理由は数字と物の行き先を覚えているから。
けれど会議では、話したい事を短く出来なかったと気にしていた。
「分かったよ。二往復出来ないってところ」
僕が伝えると、彼の手が止まった。
「全部の荷の量までは、覚えられなかったけど」
正直に付け加えた。
彼は困ったように笑った。
「それが分かっていただけたなら」
数字を全部覚えるより大事な事があったのだろう。
僕が勝手にそう決めていいかは分からない。
でも、伝わったと言ってもらえて彼が少し楽になったのは見えた。
セナがガルドから預かった小さな包みを出した。
固いパンの端だった。
朝の食堂で包んでもらった物だ。
「潰れないように入れる場所がなくて。割ってもよいか聞くと、割らずに持てと言われまして」
ラグドが自分の鞄を開いた。
木で出来た浅い箱がある。
書類を守る為の物らしい。
「途中までなら入るぞ」
セナは礼を言った。
あの強硬な代表が持ち帰るパンが、他種族の護衛の箱へ収まった。
たぶん会議の合意書には書かれない協力だった。
でも実際に今、壊れずに届く物が一つ増えた。
僕は思わず笑った。
皆がこちらを見る。
「いや。普通に手伝えるんだなって」
セナは少し考えてから答えた。
「パンなら、誰の物か分かっていますから」
なるほど。
道や兵や鉄骸になると、誰が何をするか分からなくなる。
それでも全部を一度に信用出来るようになるまで、何もしない訳にはいかない。
ラグドが箱の蓋を閉めた後、セナは受け渡す場所まで確かめた。
帰る方向は途中で分かれる。
何となく一緒に行けば何となく渡せる、では済まないらしい。
「こっちの見張り所までなら、俺が寄れる」
「では、そこで受け取ります」
二人は紙の端へ印をつけた。
パン一つでも、届くまでの段取りが要る。
僕は何も書かずに見ていた。
協力とはもっと格好いい言葉で始まるものだと思っていた。
でも目の前で出来たのは、誰が何をどこまで持つかという約束だった。
キリクがそれを覗き込み、途中で雨になったら自分が知らせると言った。
まだ全面同盟ではない。
それでも、三人が同じ包みの無事を気にしていた。
僕は自分の土産の入った鞄を足で少し寄せた。
誰かの大切な物を大切に扱うところからなら、僕にも始められそうだった。
キリクが窓の外を見た。
空が暗くなりかけている。
帰路の報告を受けに行く時間らしい。
僕は三本の切り込みのある木片を思い出した。
ガルドから預かったものだ。
似た札を持つ運び手を見たら知らせる。
生きていても、死んでいても。
「あの運び手の名前、間違えずに帰って伝えるよ」
誰にともなく言うと、セナが頷いた。
聞き返さなかった。
何の事か分かったのだろう。
トーニが立ち上がり、器を集め始めた。
僕も手伝う。
今度は形の違う器を無理に重ねなかった。
今朝より一つ賢い。最近は、こういう小さなところで自分の成長が分かる。
廊下へ出るとテトライルが待っていた。
僕の顔と靴を順に見た。
「お話は出来ましたか」
「うん。靴の掃除も教わった」
彼女は靴底を見て、よろしいですねと答えた。
僕の本日の成果を正当に評価してくれる人だ。
部屋へ向かいながら、広間で話した事を伝えた。
代表にもそれぞれ仕事がある事。
同伴者は護衛だけではない事。
パンの端を他の人の箱で運ぶ事。
彼女は最後の話で少し笑った。
「皆様も、持ち帰る物をお持ちなのですね」
僕は頷いた。
その声を聞いて気づいた。
彼女が持ち帰りたいのは、僕なのだ。
塩の包みを自分で運ぶ彼女を見て、僕は簡単に分かったつもりでいた。
でも本当に壊したくない物を抱えている人は、ずっと隣にいた。
部屋の前で足を止める。
テトライルがこちらを見る。
「勝手にいなくならないよ」
彼女は驚いた顔をした。
「はい」
それだけだった。
僕もそれ以上、立派な事を言わなかった。
言った分だけ、ちゃんと守ろう。
昨日は大きな約束をした。
今夜は、明日の朝にちゃんと起きられるように眠ろうと思った。




