第六十八話:空いた会議場と、二つ目の出口
午後の会議場は、昨日と違う匂いがした。
濡れた布と、木を拭いた後の匂いだ。椅子は壁際へ寄せられ、丸い卓だけが真ん中に残っている。
昨日は十人分の声が詰まっていた部屋に、今日は僕達の足音がよく響いた。
「ここを見ておくの?」
帰る前に会場を確かめると聞いて、忘れ物探しかと思っていた。
テトライルは頷いた。
「昨日は、こちらの扉を使いませんでしたので」
壁に小さな扉がある。
書類を置く台で半分隠れていた。
裏手へ出られるという。
なるほど。出入口の確認。
旅の初日から受けている授業である。
会議が終わった後まで宿題が出るとは思わなかったが。
係の男性が台を横へ動かした。
僕も手伝おうとすると、まず台の上の紙をどけるよう言われる。
はい。順番を飛ばしました。
持ち上げてから全部落とすよりはよい。
扉の向こうは狭い通路だった。
人が二人並ぶには少し窮屈で、テトライルが先へ出る。
僕は背中についていった。
「剣、引っ掛からない?」
「向きを変えます」
彼女は長い鞘を手で支え、少し斜めにした。
肩をひねり、壁に当てずに抜ける。
僕は自分の鞄を見た。
この幅なら、僕はたぶん鞄をぶつける。
本人の幅だけでは通れるか決まらない。
当たり前の事を、また発見した。
扉を出たところで、道に沿って低い盛土が続いているのが見えた。草に隠れた途切れ目から、向こうの山の裾が覗く。
「昔、この辺りで大きな戦があったそうです」
テトライルは踏み固められた道の方へ僕を促した。
「じゃあ、これは土塁?」
「そう呼ぶ方もおります。もっと後に、道を直す為に盛った土かもしれませんが」
僕は盛土の先を見た。二つの山の間へ道が吸い込まれている。あそこを通らなければ向こうへ行けないなら、昔の人も同じところで足を止めたのだろう。
昨日、僕達はあの部屋で戦う為の話をした。ここで似たような相談をしたのは、僕達が初めてではないのかもしれなかった。
裏手には荷を積む小さな広場があった。
屋根の下に空の桶が並び、炭の袋が積まれている。
表から見ると立派な会議場だったが、こっちは働く建物の顔だった。
トーニが一人で札を数えていた。
僕達を見ると立ち上がろうとしたので、座ったままでいいと伝える。
「帰る荷物?」
「各地へ戻す書類です。原本と写しの数が合わなくて」
失くしたのかと思った。
そうではないという。
書き直した紙を新しい物と一緒に数えてしまったらしい。
僕も床へしゃがんだ。
右腕を強くつかない位置を探してから、膝を曲げる。
もう動くたびに全身へ注意書きが出る。
札には短い印があった。
僕は読める物を渡し、分からない物は勝手に仕分けなかった。
トーニが一枚ずつ行き先を確かめる。
「同じ文でも、地図が違うんだね」
「はい。渡してよい範囲が違います」
昨日の消された道を思い出した。
知っている人が確認しなければ、間違えて包んだだけで秘密が外へ出る。
土産を混ぜない為に包みを分けていた自分の仕事が、急に小さく感じた。
いや、小さいから不要ではない。
今は紙を持つ役をちゃんとしよう。
係の男性が桶を運んできた。
水を捨てる前に僕達の足元を見る。
僕は立って道を空けた。
テトライルも荷の置かれた端を避ける。
狭い場所で全員が自分の仕事だけを進めようとしたら、すぐ動けなくなる。
だから一人が止まる。一人が通る。
昨日の会議よりずっと静かに順番が決まっていた。
「ここへ兵を入れるなら、先に空ける場所を決める必要があります」
テトライルが広場を見ながら言った。
僕は桶の跡へ目を落とす。
「人が逃げる道だから?」
「それもございます。食料を運ぶ道と重なれば、守りに来た者が邪魔になりますので」
守る人を置けば守れる。
頭の中で考えると簡単なのに、実際に置く場所は簡単ではない。
彼女は係へ、今後この通路へ荷を置く時の取り決めがあるか尋ねた。
係は首を振った。昨日だけ台をよけたのだという。
「塞がない線を床へ引いてもよいでしょうか」
それは僕でも役に立てそうだった。
紐を張る。壁から幅を測る。トーニが紙へ書く。
僕は紐の端を押さえた。
血刃様、今日は紐を切りません。
切ったら全員の仕事が終わらなくなるので。
用途を増やすより、出番を選ぶ方が大事な職場です。
白い線を引き終えると、広場から部屋へ戻った。
卓の下に小さな欠片が落ちている。
ラグドが椅子へ残した爪の跡の一部かと思ったが、ただの古い木屑だった。
僕は昨日自分が座った場所へ立った。
見える景色が違う。
誰もいないと、円卓は本当に丸いだけの卓だった。
テトライルが向こうへ回った。
僕の席から見ていた位置に立つ。
「昨日、私がこちらへ立ちましたら、どう見えますか」
立派だ。
強そうだ。
何より剣が長い。
僕は少し考えてから、正直に答えた。
「一緒に帰ろうって言われたら、帰ると思う」
彼女の目が少し伏せられた。
僕は慌てて続けた。
「怖いって話だけじゃなくて。安心するから、帰りたくなる」
帰れば彼女が守ってくれる。
イツモアが迎えてくれる。
シェリルもいる。
そんな場所からわざわざ出てくる理由を、昨日の僕は自分で答えなければならなかった。
テトライルは何も言わず、僕の隣へ戻ってきた。
「怒ってくれた事は、嫌じゃなかったよ」
伝えると、彼女は少し息を吐いた。
「私は、貴方様を無事に戻すと約束いたしました」
「うん」
「その約束を守る為に、会議を断る事も必要だと思いました」
僕は頷いた。
僕の決意が正しかったから彼女が間違い、という話にはしたくなかった。
あの場で自分の命を安く扱うところまで走り出したら、止めてくれる人が要る。
「次も、そう思ったら言って。僕が何か言った後でも」
彼女の目が僕へ戻った。
「……承知いたしました」
その返事は軍務の受領みたいに硬かった。
けれど右手が自分の剣帯を一度だけ握り直したのを見た。
言ってよいと僕から伝える必要があったのかもしれない。
係が扉を閉めようとして、もう一度開いた。
蝶番へ布の端が挟まっていた。僕が床に置いたものだった。
「あ、すみません」
拾って畳む。
逃げ道を確かめる作業をして、その逃げ道へ自分の布を残すとは。
実地訓練は油断がならない。
テトライルは、気づいて戻せたなら次は最後に床を見ましょうと言った。
僕は頷き、今度こそ足元を確かめた。
白い線の内側には何もなかった。
表へ戻ると、入口の段差で一人の老人が足を止めていた。
杖の先を置く場所を探している。
僕は手を出しかけ、まず尋ねた。
「荷物を持ちましょうか」
老人は小さな袋を渡した。
身体を支えてほしい訳ではなかったらしい。
階段を下り終えると袋を返す。
老人は礼を言い、そのまま歩いていった。
僕は自分の右手を見た。
何かを切れなくても出来る仕事はあった。
しかも今日は血が減らない。
たいへん経済的だ。
テトライルは広場の端で係と話していた。
道に問題がなければ、明朝ここを発つと伝えている。
道の報告を受け、危険なら日程を変える。
僕は後ろで待った。
待つのも少し上手くなった気がする。
以前なら何か手伝わなければと思って、話の途中へ口を挟んでいたかもしれない。
トーニが走って出てきた。
写しの数が揃ったそうだ。
僕はよかったと答えた。
彼は抱えた紙を持ち直す。
セキラハへ着いた夜、窓から見た時には、紙を一枚落として慌てていた青年だった。
今は誰へ何を渡すか知っている人として見える。
僕達は同じ会議へ出ていたのに、それぞれ別の物を持ち帰る。
兵の記録。荷車の数。通れる道。
僕の鞄には、行方不明の人の名もあった。
会場の扉を閉める前、もう一度裏の出口を見る。
台は白い線の外へ置かれていた。
ほんの少しだけ、誰かが通りやすくなった。
昨日あの場所で、大きな約束をした。
今日出来たのは床に線を一本引く手伝いだった。
どちらかだけでよい訳ではないのだろう。
僕は筆置きを鞄の上から触った。
会議の間は豆を止め、今日は使わずに済んだ。
土産も道具も、毎回同じ役目ではない。
帰ったら、イツモアへこの話も出来るだろうか。
料理名だけではない報告が随分増えた。
テトライルが隣へ来た。
歩き出す前に僕を見る。
「宿へ戻りましょう」
今度は、帰りましょうと急ぐ声ではなかった。
僕は頷いた。
二つ目の出口を知ってから、表の扉を通った。




