第六十五話:最初に立つ人と、まだ白い道
実に困った事に、僕はうちの御車がどう動くかすら、つい先日までよく知らなかった。
作ってませんよ、と胸を張りたい。僕個人に限れば事実だ。ついこの間まで自分の鞄に片腕を拘束されていた男に、あんな精巧な兵器が作れてたまるか。
でもガルドが聞いたのは「あんたたち」だった。
室内が暖かくなり、上着は椅子の背へ掛けていた。なのに、ガルドの問いを聞いてから背中が冷たい。
「僕が知っているのは、うちの二人が鉄骸を壊して人を助けた事です。作ってるところを見た事はありません。それより前の事を聞かれたら……知りません」
テトライルがこちらを見た。怖かった。こんな答えを持って帰れば、僕を見送ってくれた人達はがっかりするかもしれない。
「うちの騎士があれと戦って死んだ記録なら提出出来ます」
彼女は僕の答えを言い直さなかった。
「ただし遺族の名は出しません。家へ押しかけて死に方を確かめられるような事はさせません」
「そちらの死者だけ手厚いものだな」
ガルドが低く言った。卓のどこかで木が軋んだ。僕は隣を見た。音を立てたのはテトライルではなかった。ラグドが椅子の縁を握り込んでいた。
「亡くした数を競うなら俺は外すぞ。伝言があったら後で寄越してくれ。ここへは通れる道を一本持って帰るって言って来たんだ」
その太い指へ、ミレーネが水の入った杯を押した。彼は仕方なく椅子から手を離した。座面に爪の跡が五つ残った。
立派な円卓が割れるより先に全員の尻の下から椅子がなくなる。そんな結末は嫌だ。
「似ているという以上の根拠はあるんですか」
僕が聞くと、ガルドは一瞬顔をしかめた。面白い事に、答えた時の方が穏やかな声だった。
「エイリスを狙って来る。脇の畑にいた俺の身内は見逃された。先月は荷を下ろした後で来た。人は消えたのに荷は残った。もし俺があれを使って、よその者を街道から追いたいなら、実に安上がりに済む」
「代表。荷を下ろしたのは二件のうち一件です」
セナが言った。ガルドは短く詫びて言い直した。
「一件だ。だが一度でも、次の荷を預かる俺には十分だ」
ナギを出た日に聞いた、街道を避ける荷車の話。その一件と繋がっていたのかもしれない。繋げていいか分からない。けれど誰かに危険が作れる事と、その誰かが実際にやった事は違う。
「もしエイリスが裏で鉄骸を使ってるとしたら、狙われたのはどうしてエイリスなんですか」
「だから作り話だとは言い切れん。身内に損をさせてでも得をする者がいるかもしれん。あんたの国で一番力を持つ連中の事を、俺があんたより詳しく知っていると思うか?」
口をつぐんだ。悔しいけど、僕が来るより前からこの人は自分の集落を守ってきた。初対面の僕が大丈夫と言ったところで何の足しにもならない。
僕の前の豆は筆置きの溝にぴったり収まっていた。その豆を見ながらネルダが言った。
「私は今日、誰が作ったか分からないまま帰れます。でも、何もしないと決めては帰れません」
トーニが一枚の紙を開いた。そこにあったのはイーガから運び出せる物の一覧だった。布に薬。種にする豆。三段目から先は数字が消してあった。
「道が一本使えなくなるたびに荷を減らしました。今朝、これも消しました」
彼が指でなぞった欄には、もう物の名がなかった。歩けない人を乗せる荷車の数だった。
「運ぶ手が足りません。担いで往復すればいいと書いたのは僕です。昨日ここで、荷を人ひとり分の重さにして、避難路と同じ距離を歩いてみました。往復するだけで夜になりました。だから二往復目は消しました」
声が少し上ずった。彼は続きまで説明しようとしたけれど、ネルダが紙の端を押さえた。
「うちには鉄骸の前脚を止められる兵がいません。最初に一つ村を失うならイーガです。次がないのは道だけではありません」
会議の途中なのに、僕は右肘を左手で包んでいた。一頭の顔に刃を当てた感触が蘇った。硬くて、腕が痛くて、来るはずの死をほんの少し横へずらすので精一杯だった。
血刃様。今日は黙っててくれて助かるよ。僕が自分の口で答えなきゃいけないところだ。
僕は立った。膝を卓の裏へぶつけた。めちゃくちゃ痛かった。とても神様の立ち方ではないが、もう一回座ってやり直す余裕はなかった。
「みんなで鉄骸を駆逐するのに、力を貸してください。僕が先頭に立ちます」
テトライルの耳がぴくりと動いた。
「僕を呼んだのは、エイリスが神と慕ってる奴が、自分だけ神殿にいて何を頼むつもりだって思ったからでしょう。だったら僕もそこへ行きます。危ないところへ皆さんを送り出すだけの約束はしません」
原稿なんてない。僕の紙に書いてあったのは質問だけだ。誰かが喉を鳴らすのを聞きながら続けた。
「一人で倒せるなんて言えません。一昨日だって一頭を前に転びました。道で人を助けた時も、僕が握った手を向こうも握り返してくれたから逃げられた。あの時は相手の種族なんて聞かなかった。次もそうしたいんです。エイリスの道を守って、隣の道で人が帰らなくなるのを待つのは嫌です」
「……弱いのか、あんたは」
「はい。わりと」
思わず即答してしまった。そこは少し考えてもよかった気がする。
ガルドの隣でセナが初めて笑った。
「この方がここへ着くまでに三度襲撃を受けたのは、うちの見張りも確かめています。逃げ帰らず、ちゃんとここまで来た。代表、そこも書かせてください」
「書け。都合の悪いところを消せと教えた覚えはない」
ガルドは赤い御車の絵を畳んだ。
「そこまですると言うなら協力はする。ただし初めの一度、エイリスだけで鉄骸を駆逐してみせろ。あんたが先頭でだ」
僕の隣で椅子が引かれた。
「今、何と仰いました」
テトライルの声で背中が冷えた。獣が十頭現れた時にも聞かなかった声だった。
「こちらへ来いと言われてお連れした。道中に襲われ、血を流されて、それでも貴方方を置き去りにしたくないと仰る方に、今度は潔白の証の為にもう一度血を流せと?」
「うちの若いのだって血を流す。背を預けられるか分からん相手とは行かせん」
「ならば同盟など必要ありません。カイ様、帰りましょう」
彼女の手は剣にかかっていなかった。僕の上着を取り、冷えないよう肩にかけてくれた。その指が怒りで強張っていた。僕を連れて帰って、無事な姿をイツモアに見せる。そう約束してきた人だ。
正直、帰りたかった。
今ならテトライルが怒ったせいにして帰れる。それが一番嫌だった。
「テトライル。僕は引き受けたい」
上着に触れる指が止まった。
「きみがそこまで怒ってくれて、嬉しいよ。僕も腹は立ってる。シェリルもイツモアも、あの日は知らない人を守る為に戦った。それを疑われて悔しい。でも今帰ったら、あの荷車に乗れる人数は増えないよ」
彼女は少しの間、僕の顔を見た。
「……ではお座りください。お一人だけは前へ出しません」
「うん。隣にいて」
座ってみたら膝がまだ痛かった。隣の椅子も戻った。僕はようやく上着の袖へ自分で腕を通した。
「条件をはっきりさせましょう」
ミレーネが口を開いた。
「初めの掃討はイーガ周辺。戦うのはエイリス側だけ。では四種族は何を見て約束を果たしたと判断します? 明くる朝に別の一頭が現れたら、また初めから疑うのですか」
「それでは何度でもやらせられる」
ラグドが杯を置いた。ようやく彼が持ち帰りたいと言った道の話に戻ってきた。
オルネアは紙を回した。どこからどこまでを目標とするかは現地の目撃を照らし合わせて決める。勝手に地図の空白を塗らない。四種族はその結果をそれぞれの目で確かめる。キリクが、上から見えなかった分は見えなかったと書きます、と付け加えた。僕にはその言葉が頼もしかった。
「私達は、いつ、誰を逃がせるか調べておきます」
ネルダが豆を摘み上げた。消した道は最後まで地図へ戻さなかった。それでいい。
ガルドは紙を読んだ。読み終えると、三本の切り込みのある木片を僕に差し出した。
「似た割り札を持った男がいたら、生きていても死んでいても知らせてくれ。払いがまだだと言ってある」
僕は両手で受け取った。確かに信用する、なんて一言もなかった。けれど朝の彼は、名を正しく聞き取るまでこの木片を指一本ぶんも卓に置こうとしなかったのだ。
部屋を出る時、誰も拍手しなかった。明日から一緒に戦うと決まった訳でもない。
それでも帰りの鞄には、来る時になかった人の名が一つ入った。
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