第六十四話:十人の円卓と、地図から消えた道
会議の朝、僕は右手で上着の留め具を留めた。
一つ。二つ。最後まで自分で出来た。
鏡の中で神様代理が得意そうな顔をしている。朝の実績は着替えだ。信者の皆様には内緒にしておきたい。
「襟も大丈夫です」
後ろでテトライルが言った。どうやら僕が鏡の前で待っていた理由までお見通しらしい。
筆と筆置きを持って部屋を出た。
昨夜あれだけ椅子を運び込んでいたのに、会議場には十脚しかなかった。
余った椅子は廊下に積んである。長耳の青年が座っては立ち、別の椅子と交換していた。
「何かお探しですか?」
「あの、耳が」
僕は自分の耳に触れた。今日はまだ何もしていませんが。
「背もたれが高いと耳が当たるんです。うちの代表は我慢してお座りになる方なので、先に替えておこうと思いまして」
彼は白い耳を指で後ろへ折った。確かに背もたれの縁がちょうど痛そうなところへ来る。昨夜窓から見た、紙を拾っていた青年だった。
「トーニと申します。イーガの書記です」
僕も名乗り、椅子の片側を持った。反対を持った彼が僕の右腕を見て、そっと重い方を自分へ寄せた。何も言わなかったのがありがたかった。
背もたれに腹をくっつけて逆向きに座っている人もいた。赤褐色の翼が通路へはみ出している。
「俺の分は探さなくていいよ。これが一番楽だから」
アヤルヴェの伝令キリクだという。隣には背中の大きく開いた椅子が一脚あった。自分の代表にはちゃんと楽な席を確保してあるらしい。
なるほど。椅子一つで既に種族会議が始まっていた。
僕の要求など低いものだ。地面から浮いていなくても座れます。
卓は丸く、どこにも上座らしきものがなかった。僕とテトライルの前にあるのも、他と同じ素焼きの水差しだった。
水を注ぐと少しこぼれた。向こうから布が飛んできた。
「そいつは縁を伝うんだ。勢いよく傾けな」
投げてくれたのは濃褐色の毛並みの大男だった。言われた通りにすると今度はうまくいった。
「カムオカのラグドだ。うちの代表はあっち。俺より怖くなさそうな方」
「聞こえていますよ」
灰色の猫耳はこっちを向いていた。持ち主は書類を読んだままだ。ラグドが黙って布を畳む。
どっちが怖いかについては、知り合ったばかりの僕が口を挟む事ではない。
十人が揃った。白銀と濃紺の羽を持つオルネアが会議の進行を引き受けた。まず持ち寄った地図を広げる。僕達が橋で助けた人たちの行き先が話に出た。
「種豆を運んでいた方は歩けましたか」
薄茶色の長い耳を持つ女性が尋ねた。イーガの代表ネルダだった。
「はい。袋も濡れずに済みました。お知り合いですか?」
「私が運ぶよう頼んだ荷です。よかった。あの人は荷の為なら川へ戻りかねないんです」
トーニが小さく頷き、紙の端に一行書いた。僕があの場で見たかった知らせが、ようやく待っていた人に届いた気がした。
その紙へ向かいから指が伸びた。傷のある耳。灰褐色の毛。カニス族の代表ガルドは、不通になった橋よりずっと手前の印を押さえていた。
「では、こっちの荷はどこへ行った」
誰も答えなかった。
「うちの集落へ届くはずだった。荷車は見つかった。引いていた獣も戻った。運び手だけが帰っておらん。その男がエイリスだった事は、そちらに伝わっているか」
テトライルは手元の記録を繰った。街道も荷車も載っていた。運び手は身元不明となっている。
「なぜエイリスだと?」
尋ねたのは僕だった。ガルドは上着の下から細い木片を取り出した。小指ほどの木片の片側に切り込みが三本ある。
「戻ったらこいつの片割れと合わせて代金を払う。三十年そうしてきた。耳の形くらい覚えている」
捜してほしいと頼む声ではなかった。なぜお前たちの記録にはいないのか、と聞いていた。
テトライルが運び手の名を尋ねた。ガルドはゆっくり発音した。彼女が同じ音を返すまで、木片をしまわなかった。
僕は昨日の紙を開いた。どこが襲われているのか。何が足りないのか。
一番上に書いた質問は役に立った。ただし答えを書き込むには行の幅が足りなかった。
キリクが地図に長い紐を置いた。彼が上空から追った鉄骸の進路だ。僕達の報告と合わせると、青い印が三つ一列に並んだ。
「先頭を見た時には荷車がありました。戻って見た時にはなくなっていた。その間は見ていません」
「荷車を襲ったかは不明、と」
眼鏡のトーニが読み上げると、キリクが頷いた。その横でガルドの同伴者が二番目の印を外した。短い黒褐色の毛を持つ女性で、セナと名乗った。
「それは別の日です。あなたが見た朝には、ここにまだ荷車は入っていません。私がその日の見張りでした」
紐が少したるんだ。一本で繋がったと思った道筋が、もう分からなくなった。
僕なら三つ並んだところで発見の喜びに浸っている。発表資料に綺麗な線を引いて、翌朝えらい目に遭うやつだ。
セナが日付を添えて印を戻した。分からなくなった方が、さっきより正しい地図だった。
そこでようやく話が協力の相談に進んだ。僕はそう思った。
実際には、ここからが長かった。
ネオ・エデンの騎士が街道の北へ回れば荷を通せる。テトライルが案を出した。ネルダは頷いたが、ガルドは即座に断った。
「畑の脇にあんたたちの兵を入れる許可は出せん」
「では南の道を」
「そこを通るのはうちの子らだ。武装した者と同じ道は歩かせん」
「上から知らせを出すなら?」
オルネアが尋ねると、ガルドはそちらには考えてから頷いた。単に全部嫌だと言っている訳ではない。それにしても違いが分からない。
たまりかねて手を挙げた。ガルドが僕の手を見た。さすがに神殿の礼法講座で、挙手した後の気まずさまでは教わっていない。
「道を守ってもらうのと、兵を入れるのは、皆さんには違う話なんですか?」
「あなたは昨日、門で剣を見せましたね」
答えたのは灰色の耳のミレーネだった。
「あれを百人が帯びて来たとします。一行は守りに来たと言う。門を開けるのはあなたです。後ろには家族がいます。どうします?」
浮かんだのはテトライルの剣だった。彼女が持っていればどれほど心強いか知っている。同じ剣を知らない百人が持っていたら。
僕は口を閉じた。
「誰に言われて来たのか確かめます。帰ってもらいたい時、帰ってくれるのかも」
「私達も今、その返事をいただきたいのです」
ようやく自分が卓のどちら側に座っているか分かった。僕の目には助けが要る場所が見えていた。向こうから見えるのは、兵を入れてもいいかと尋ねる知らない男だった。
「では私からもお答えをいただきたい」
テトライルが地図へ手を伸ばした。二つの街道の間に、集落へ入る道があるはずだという。使者が見たという荷の量と、記された道の幅が合わない。
ネルダが地図を自分へ寄せた。
「あります。私が消させました」
トーニが眼鏡を押し上げた。彼の指には書き損じをこすった黒い跡があった。
「そこは兵が来たら逃げる為の道です。どこの兵であっても。子供の足で林へ入れる道は一本しかありません。今日の会議で、最初にあなた方へ渡せと仰いますか」
テトライルは伸ばした手を引いた。腹を立てた様子はなかった。
「いいえ。それは書かないでください。場所を知らずとも、その地域へ部隊を入れない取り決めは出来ます」
ネルダが初めてまっすぐ彼女を見た。
「……それで困りませんか」
「守るはずの者を逃げ場から追い出す方が困ります」
小さな卓だったら隣で彼女の背中を叩きたかった。僕だったら危うく、道を全部教えてくれないと守れないと言っていたところだ。
ネルダは地図を戻した。消した道の代わりに、街道の途中へ豆を一粒置いた。
「なら、ここまでなら荷を出せます。こちらが兵に会いに行く場所です」
目印の豆がころころ転がった。僕は筆置きの溝で受けた。朝からせっせと持ってきて最初の仕事が豆の停車場である。なかなか悪くない。
その時ガルドが、卓の上へもう一枚の紙を置いた。
そこには銀色の狼が描いてあった。御車を引く、僕達の狼だ。隣には四つ脚の鉄骸。二枚の絵は子供の手によるものらしかった。狼の方にだけ赤い御車がくっついていた。
「うちの門番の娘が描いた。あんたらの騎士が来たら赤い車を捜すそうだ。あれがなければどちらの脚音か分からんと」
彼は絵から指を離した。
「道を貸せるかという話なら、道の幅を測れば済む。だが俺があんたをここへ呼んだのは、その為じゃない。プロト・ワン。あの鉄骸を作ったのは、あんたたちじゃないのか」
窓の板戸が風で一度鳴った。
今度は誰も地図を見ていなかった。




