第六十一話:雨宿りの献立と、右肘の試作品
雨は夜のうちに降り始めた。
朝、屋根を叩く音で目を覚ます。
泊めてもらったのは橋の近くにある共同の作業小屋だった。寝床と炊事場は仕切られていて、扉の外では昨日の人たちが朝食を作っている。
僕は肩を動かした。
痛みはほとんどない。
それでも起き上がる時には反対の手をついた。
身体より頭の方が、まだ昨日を覚えていた。
テトライルはもう起きていた。
机の上に地図と連絡用の板。窓の向こうには増えた川の水。
今日は無理に進まないという。
「会議に遅れない?」
「状況は先方へ知らせています。通れる道が確かになるまで、ここで待ちます」
僕は頷いた。
早く着く為に川へ流された代表者。
議題になる事はできても参加はできない。
朝食の支度を手伝おうとすると、イツモアの包みが役に立った。
乾いた葉と細かい種。それぞれに使い方が書いてある。
僕は一つを読み上げた。
火を止めてから少量。先に香りを確かめる。
テトライルは鍋を覗き、真面目な顔で量を考えた。
肉を食べる時の決断力はどこへ行ったのだろう。
「少量、とは」
僕達は顔を見合わせた。
女神代行と騎士団長が揃って、ひとつまみの定義に敗北している。
近くにいた女性が笑って教えてくれた。
指先でほんの少し。足りなければ後から足す。
なるほど。戻せないものは控えめに。
僕の血液にも適用したい原則だ。
出来上がった汁は、神殿ともナギとも違う味だった。
具材が違う。火の癖も違う。
それでも鼻へ抜ける香りに、イツモアの顔が浮かんだ。
テトライルも器を持ったまま少し黙っていた。
「帰ったら教わる約束、してたね」
彼女は頷く。
料理を作って誰かに食べてもらうイツモアが、以前より楽しそうに見えるのだという。彼女は巫女長。基本的な雑事は殆どしなかったらしい。
僕がこの世界に来てから積極的に携わる様になったのだという。
「今日のは一品目でいいんじゃない?」
僕が言うと、彼女は鍋を見た。
それから紙の端へ香草の量を書き足した。
午後、雨が弱くなった。
軒下の広い場所を借り、昨日までの動きを繰り返す。
肩は動かせる。疲れが戻ればすぐにやめる。それを先に確かめた。
右肘には短い木片を布で留めた。
刃ではない。どこへ向くかを見る為の目印だ。
腕を曲げる。身体の外へ向ける。
足を一歩下げて、肘を引く。
木片の先が柱へ当たった。
「……なるほど。室内使用禁止」
テトライルは笑わず、僕と柱の間を広げた。
右後ろは自分で見にくい。そこへ長いものが出れば、近くの人も傷つけかねないという。
血刃様、性能の話より先に使用上の注意が増えています。
もう説明書の方が刀身より長い。
肘を振り回すのはやめた。
曲げた腕の向きを保ち、身体ごと半歩動かす。
木片が同じ高さを通った。
手の甲へ出す時より、手を握り込まずに済む。
前腕の延長として考えれば少し分かりやすかった。
初日は形だけ。
次の日も、まず木片から始めた。
雨で傷んだ道を確かめる者が戻るまで、僕達には待つ時間があった。
鍋の火を見る。濡れた布を干す。小さな動きを十回ではなく三回だけ試す。
その間に休み、紙へ書く。
ある日は僕が香草を足し過ぎた。
苦い。ひとつまみを理解したつもりで、早くも応用問題を間違えた。
三回と決めたのに四回目を始めかけると、テトライルが指を一本立てた。
数えられています。
厳密な査読者つきの研究生活である。
休憩中は布を絞って干した。
片方を僕、もう片方を彼女が持つ。
力を合わせるつもりで引いたら、布ではなく僕が半歩動いた。
「あ。申し訳ありません」
テトライルが慌てて力を緩める。
僕は大丈夫と答え、柱のそばへ足を置き直した。
強い人に力を合わせるには、強い方が合わせてくれていたのだ。
昨日の訓練で倒れずに済んだ時も、彼女は僕の動きに合わせていた。
今度は僕が先に引き、彼女がそれに添える。
水が地面へ落ちた。
何でもない作業が終わると、二人で少し笑った。
右肘の皮膚へ意識を寄せたのは、肩の痛みが消えた翌朝だった。
薄く。長さより、崩れない形。
小さな痛みが走る。
袖は上げてある。赤い筋が肘の外側から出て、爪ほどの縁になった。
見下ろしにくいので、テトライルが鏡を斜めに置いてくれる。
出来た。
ただし、驚いて肘を曲げた途端に滴へ戻った。
「初出勤で早退か、けっちゃん」
彼女が布を差し出した。
僕は自分で押さえ、肩へ力が入り過ぎていた事を記録する。
血は戻らない。
傷だけが閉じても、出した分を帳消しにした事にはならない。
シェリルから届いた返事にも、その点を混同しないよう書いてあった。
だから次は、すぐにやらなかった。
翌日、短い刃を保ったまま一歩動けた。
その次は十数センチ。
長くするより根元を少し太くすると、先が揺れにくい。だが重さに気づいて腕を止めると、また崩れる。
毎回一つずつ失敗した。
まとめて成功する機能は実装されていないらしい。
長さを測る木には、細い線を刻んでもらった。
子供の頃兄弟でやったな。柱に自分の身長を刻むやつ。
数字だけでは分かりにくいので、出来た長さへ日付を書く。
初めは爪ほど。その先には、まだ何も書かれていない空白がある。
僕は空白を見て、つい先を埋めたくなった。
長い方が強そうだ。
見た目の説得力が違う。
その話をすると、彼女は長い木を肘の位置へ当てた。
腕を少し動かすだけで先が大きく振れる。
自分の身体から離れるほど、どこへ当たるか確かめにくかった。
「扱えない分まで伸ばすと、相手に向ける前に困ります」
僕は頷いた。
経験値が足りないのに上位装備だけ手に入れた状態か。
見栄えの為に命を払うのは、さすがに割に合わない。
木を短いものへ替える。
まず同じ場所を三度通す。
その方が、遠い空白へ数字を書くより難しかった。
テトライルも見る角度を変えた。
僕の肘ではなく腰と肩を見る。マナの前触れがない僕の動きを、目で読み直しているのだという。
一方的に教わっているだけだと思っていた。
僕が不思議そうな顔をすると、彼女は木片を指した。
「見落とすものがあると分かった以上、そのままにはできません」
強い人がそう言うのか。
僕は何だか嬉しくなって、姿勢を正した。
昼には作業小屋の道具を戻すのを手伝った。
雨の間に増えた薪を積み、濡れた場所を拭く。テトライルは重い桶を運び、僕は通り道から小さな木片を拾った。
一つ拾うたびに足を近づける。
遠くへ手を伸ばして腰だけ曲げない。
練習が暮らしの中へ入り込んでいた。
彼女はわざわざ褒めなかった。
僕も毎回報告はしない。
ただ、最後の一枚を拾った時に目が合い、小さく頷いてくれた。
そのくらいが嬉しかった。
立つたび歩くたびに拍手をされたら、さすがの僕も成長を喜びにくい。
夕方には道の一部が使えるようになった。
明日の朝、警戒の者が先へ進む。僕達もその知らせを待って出発する事になった。
荷物をまとめながら、テトライルが剣帯の擦れた部分を直した。
僕は布を切る役を引き受ける。
小刀を使った。
血刃様は休養中です。
雇用主である僕の判断です。異論は受け付けません。
作業小屋の人たちと最後の汁物を食べた。
テトライルが香草を入れると、最初の朝に量を教えてくれた女性が、ちょうどいいと頷く。
彼女の耳が少し赤くなった。
剣を振っている時には見なかった表情だった。
僕は美味しいと言った。
一度では足りない気がして、もう一口飲んでからもう一度言った。
翌朝、前日に短い間だけ保てた二十センチほどの刃を紙へ描く。
その下には、長くすれば強い訳ではない、と書いた。
ただ隣に立ってくれる人との距離は、少し短くなった気がした。
それは記録に書かなかった。
代わりに、教わった汁物の作り方を別の紙へ写した。
香草の名前と入れる順番。僕が苦くし過ぎた時の量も小さく残す。
失敗の分もあれば、帰ってイツモアへ説明しやすい。
テトライルはその紙を見て、持って帰りましょうと言った。
僕は頷き、濡れないように二人分の記録の間へ挟んだ。
お読みいただきありがとうございます。
剣を振る時とは違うテトライルの表情も、楽しんでいただければ嬉しいです。




