第五十八話:十頭の影と、騎士団長の一歩
最初に聞こえたのは枝の折れる音だった。
風にしては短い。
二度目は別の場所から響いた。
テトライルが地図を閉じ、御車が滑るように止まる。
「カイ様。右の扉から。岩の手前まで移ります」
彼女はもう剣を取っていた。
何がいるのか尋ねる前に、僕は鞄の紐を肩へ掛けた。
扉の先には低い岩と窪地がある。あの街道で見た巨体が頭に浮かんで、足が一瞬動かなくなった。
違う。今は右へ降りる。
そこだけを考えた。
地面へ靴がついた途端、斜面の木が揺れた。
四本の脚が土を掻く。
獣だった。
いや、獣の形をした何かだ。
長く伸びた胴を金属のような板が覆い、板の間から筋の束が膨らんでいる。青い光がその筋を走るたび、背中の装甲がずれて内側の管が見えた。
あれも『鉄骸』なのか?
大きい。
その胴だけで御車よりも長そうだった。
一頭が道へ降りた。その後ろから二頭。
反対側の藪も動く。
「十体。御車は後方へ下げます」
テトライルの声が聞こえた。
数えられるのか、この状況で。
僕の脳内の数え方は既に『多い』で止まっている。
銀色の狼たちが御車を引いて下がった。
鉄骸の頭が動く。僕の方を通り過ぎ、テトライルへ揃った。
口に当たる場所が開いた。歯ではなく、互い違いの金属板が擦れた。
彼女が一歩前へ出る。
赤い髪が肩の後ろへ流れた。
先頭の獣が跳んだ。
僕には、その瞬間まで彼女が動いていないように見えた。
次には脚の下へ入り込んでいた。
剣が斜めに走る。前脚の付け根で金属が潰れ、獣の身体が横へ傾く。
落ちてくる腹へ彼女の掌が触れた。
低い音がした。
雷を遠くで聞くような音だったのに、僕の歯まで震えた。
獣の背中が内側から持ち上がり、丸い硬質の破片が装甲を押し破って散った。
核。
思い出した時には、二頭目がその死角へ飛び込んでいた。
テトライルは退かなかった。
折れた脚を踏み、跳びかかる頭を剣の腹で横へ弾く。
顎が地面へ刺さった。後ろ脚だけで起き上がろうとする巨体へ剣先が沈む。
青い光が首から胴へ走り、そこで消えた。
二頭。
まだ八頭。
算数がこんなに嫌な科目だった事はない。
右側の一頭が岩へ回り込んだ。
顔のない頭が僕へ向く。遅れて金属板が開いた。
見つからない訳ではない。気づくのが遅いだけだ。
「カイ様、後ろへ!」
僕は立ち上がり、岩の裏を回った。
大股で逃げたくなる。小さく、と声に出して足を置いた。
背後で岩が割れた。
身体へ破片が当たる。腕が熱くなり、袖に赤い線が広がった。
痛い。
普通に痛い。
マナの影響を受けない体質だろうが、石は大変公平に殴ってくる。
僕は窪地へ膝をついた。
腕を押さえる。傷は浅い。そう思いたかったが、布の下は見なかった。
岩を越えようとした獣が急に横へ流れた。
テトライルの剣が頭部の下へ入り、装甲の薄い喉を裂いていた。
彼女は引き抜くと同時に振り返る。
「こちらへは来ないでください。そのまま低く」
はい。
こんな時に格好よく加勢できる人間ではない。
僕は土へ伏せ、彼女の足だけを見た。
四頭が距離を空けて囲んだ。
一頭が前へ出ると別の一頭が下がる。獣の狩りに似ている。けれど呼吸も唸り声もなく、脚の駆動音だけが重なっていた。
テトライルが剣を低く構えた。
正面の獣が踏み込む。
彼女の足が地面を打った。
土が薄い輪になって跳ね、前脚を踏ん張った二頭の関節が同時に折れた。
剣がその間を抜ける。
装甲の縁に沿って赤黒い中身が開き、硬い殻が一つ露出した。
剣先が触れる。
殻だけが砕けた。
僕は口を開けたままだった。
僕は膝をずらし、窪地の底へもう少し身体を沈めた。
顔を上げ過ぎれば、飛んだ金属が当たる。見たい気持ちと見てはいけない距離が、うまく噛み合わない。
「低く」と言われた。
今はそれを守る。
左手で腕を押さえたまま、靴先の向きを確かめた。
逃げろと言われた時に立ち上がれるようにする。それだけの支度にも、驚くほど時間がかかった。
大きく壊せば勝てるのではない。どこを壊すか、彼女は選んでいる。
道の奥にいた一頭が後ろへ下がった。
右の藪にいた二頭が、同時に動いた。
片方は低く走る。もう片方は倒れた胴の上へ乗り、そこから飛びかかろうと背を丸めた。
テトライルの剣が低い方の顔を掠める。
わざと外したように見えた。獣が頭を引いた隙間へ彼女が入り、肩の装甲を押して向きを変える。
跳んだ一頭が、その背中へ落ちた。
金属同士がぶつかり、筋の束が押し潰される。
それでも二頭とも動いた。
彼女は重なった身体の横へ回る。
一度目の突きで下の個体の脇腹。
二度目は上の個体の胸。
同じ場所ではない。
僕は息を呑んだ。外側の形が似ていても、核まで同じとは限らない。
あの短い間に確かめていたのか。
止まったはずの胴の下側で、青い筋がまだ脈打っていた。
彼女は足を退き、裂けた装甲の隙間へ刃を突き下ろす。
地面へ押しつけられていた硬い殻が割れ、ようやく光が消えた。
僕は思わず後ろを振り返った。
自分が見ていない方から何か来る気がした。
岩。草。御車。
今は何もいない。
見て確かめた事で、ほんの少しだけ息が戻った。
その横を別の獣が走る。道の先へ逃げるのかと思ったら、御車の方へ回り込もうとしていた。
テトライルが倒した胴から金属片を蹴り上げた。
剣の腹で打つ。
飛んだ破片が脚へ刺さり、獣が道の端で転倒した。
間を置かず彼女が追いつく。
僕には剣を引いたところまでしか見えなかった。
次の瞬間、横倒しの胴に穴が開いていた。
その奥から残る獣が迫った。
テトライルが身体を返す。剣が走るたびに装甲が開き、巨体が土を滑った。
僕にはもう、一頭ずつ追い切れなかった。
音が減る。
それでも彼女は戻ってこなかった。
止まった獣へ近づき、装甲の下を一つずつ確かめる。
一頭の腹が僅かに動いた。
そこへ剣先を入れてから、ようやく僕へ振り返った。
「お待たせいたしました」
買い物を済ませたような言葉だった。
ただ、彼女の肩には土がつき、剣の根元には青白い液体が残っていた。
僕は頷こうとして喉を鳴らした。
返事にならない。
彼女は剣を離れた場所へ置き、僕の視線の高さまで屈んだ。
「立つのは、少し後で結構です」
その言葉で、立たなければと思っていた膝から力が抜けた。
腕の傷はもう血が止まりかけていた。
テトライルは水で土を落とし、残った小さな破片がないか確かめる。閉じるから大丈夫、と省略はしなかった。
僕は彼女の手元を見ながら、あの巨体へどうして近づけたのか尋ねた。
声が震えていた。
彼女は布を当ててから答えた。
「動き出す前に、力の集まる場所を見ます。脚へ偏れば踏み込み、背へ流れれば跳躍の支度です」
目だけで見る話ではなかった。
マナの流れを感じる。慣れた戦士ほど、その変化へ先に身体が動くという。
そこで彼女の手が少し止まった。
「演習場で、貴方様の拳を受けた時も……そのつもりでした」
僕は顔を上げた。
あの時。殴った本人より、殴られた彼女が驚いていた。
「カイ様には、同じ前触れがありませんでした。傷はなかったのに、衝撃だけが身体の奥へ届いた。それで考えていたのです」
怒っていたのではなかったらしい。
今さら胸の奥が軽くなった。
怒らせたかと思っていたと伝えると、彼女は目を丸くした。
「そのような事は」
その返事が真剣だったので、僕は少し笑えた。
ただし僕の拳が強い、という話ではない。
彼女の得意な読み方に、僕だけが載っていなかった。
攻略本に名前のない雑魚。今のところ、それが一番近そうだ。
テトライルは警戒の者へ記録を送った。
六メートル級の大型追撃獣型。十体。全機の活動停止を確認。
僕はその間に、教わった窪地を振り返った。
そこまで自分の足で移れた。
怪我もした。怖くて伏せた。それでも、前と全く同じではなかった。
本日の血刃様は欠席。
代わりに両脚が、何とか出席してくれた。
お読みいただきありがとうございます。
テトライルの強さと、カイが昨日教わった事を実践する一歩を描きました。
二人旅の続きを見届けていただけましたら、ブックマークしてお待ちいただけると嬉しいです。




