第五十七話:騎士団長の昼食と、逃げ道の宿題
神殿が見えなくなると、御車の中が急に広くなった。
向かいにはテトライルがいる。
足元には荷物。窓の外には銀色の狼の背中。
何も足りなくなった訳ではない。ただ、イツモアが包みを開く音もシェリルが苗の箱を確かめる気配もなかった。
僕は鞄を開いた。
『お水と一緒に。お急ぎにならずに』
果実の包みの下に、焼き物へ添えられた紙が見える。
留守番をしていても、遠く離れた僕の食べ方まで指導できるとは。巫女長の管理範囲、広いな。
「先に召し上がりますか?」
テトライルがこちらを見た。僕は首を振って紙を戻す。
「いや。ちゃんと入ってるかなと思って」
昨日も今朝も確認した。
そろそろ鞄の方から、「入ってますよ」と返事が来てもよさそうだ。
彼女は地図の脇へ指を置いた。
今日の宿へ向かう道には二本の線がある。湖側の街道と、丘を越える道。先に進んだ警戒の者から知らせが来るまでは、途中の休憩所で待つという。
「近い方へ、そのまま行く訳じゃないんだね」
「戻る必要が生じた時に、戻れる道を選びます」
ああ、旅支度の時にも聞いた話だ。
頭では頷いていたのに、地図を見ると近道ばかり探してしまう。
僕の脳内地図へ、もう一度帰り道を書き足した。
窓の外には畑が続いていた。
水の張られた溝を人が跨ぎ、土のついた道具を荷車へ載せる。こちらへ手を振った子供に僕も振り返すと、テトライルは道の先から畑の端へ順に目を動かしていた。
「ああいうところも見てるの?」
彼女は頷き、畑の向こうにある石積みを示す。
倒れても道を塞がない。こちらから向こうが見える。人が隠れていた場合は、近くの草の動きも変わる。
説明を聞く間に石積みは後ろへ流れた。
僕には田園風景。彼女には確認事項の一覧。
同じ窓を使っているとは思えない。
昼の休憩所へ着くと、先に鼻が仕事をした。
肉の焼ける匂いだ。
屋根だけの食事処には長い卓があり、奥の炉で串が回されていた。焼けた脂が落ちるたびに小さな音がする。
テトライルが入口と裏道を確かめてから席を勧めた。
「こちらでしたら御車も見えます」
なるほど。入口の見える席。
僕なら景色と明るさで選ぶところだが、騎士団長の席選びには別の審査があるらしい。
注文を聞きに来た男性へ、彼女は肉とパンを頼んだ。
量も伝えた。
僕は聞き直しそうになって水を飲んだ。
やがて届いた皿には焼き色のついた肉が重なっていた。皿というより搬入だ。僕の分だけ切り離せば、それで普通の一食になる。
「……好きなんだね、肉」
テトライルは少し考えてから頷いた。
「はい。特に、外側を強く焼いたものが」
言いながら端を切る。薄く焦げた部分へ刃が入り、中の汁が皿へ広がった。
彼女はひと口食べ、ほんの少し目を細めた。
見た事がない顔だった。
戦いの話をしている時ほど真剣ではない。けれどどうでもいいものを食べている顔でもない。
「美味しい?」
「はい。カイ様のお口には合いませんか」
慌てて首を振る。
僕の分も充分美味しい。彼女の嬉しそうな顔を見ていたとは、何となく言いにくかった。
卓の端には泡の残った杯が置かれていた。隣の客が飲むたび麦に似た香りがする。
テトライルも一度そちらを見たが、注文したのは水だった。
「飲まないの?」
「今はお連れしておりますので。帰ってからにいたします」
その返事は自然だった。
我慢していると訴える調子でもない。僕は皿の肉を切りながら、帰ったら一緒に食べようと言った。
「その時は、好きな飲み物も頼んでよ」
彼女の刃が止まった。
それから、はい、といつもより少し柔らかい返事が来た。
僕は追加の肉代を計算するのをやめた。
今は約束の方が大事だ。財布には後で相談しよう。
食後、知らせを待つ間に裏の空き地を借りた。
今日は武器を持たない練習だ。テトライルが地面へ三つ、小石を置く。
あの石まで歩く。
止まったら次を見る。
合図があれば方向を変える。
説明は簡単だった。
実演すると僕だけ忙しい。
「右へ」
言われた途端に肩を回し、足が後からついてくる。
土へ靴底が引っ掛かった。彼女が手を伸ばしたが、僕は何とか片足を出して持ち直した。
おお。転ばなかった。
採点基準が低いのは承知している。だが本日の僕には充分な成果だった。
テトライルは足跡を示した。
「上半身を先に向け過ぎています。歩幅を少し小さくしてみましょう」
もう一度。
足を置いてから腰を回す。景色がゆっくり横へ動いた。
今度は肩を支えられずに済んだ。
彼女はすぐに次の課題を足さなかった。
同じ動きを繰り返す。三度目で少し急ぎ、また靴が引っ掛かる。
成長した途端に処理速度を上げるな、僕。
まだ試運転中の機械だぞ。
休む時には、石の向こうを見ておくよう言われた。
何故かと尋ねると、あそこまで着けば安心だと思った瞬間に止まりやすいからだという。
僕は以前隠れた岩を思い出した。
そこへ行く事しか考えていなかった。着いた後も脚は落ちてきた。
息が少し浅くなる。
テトライルは僕の前を塞がず、横へ並んだ。
足元の小石を一つ拾う。
「今日はこれが相手です。追ってはまいりません」
見せられた石は小さかった。
僕でも勝てそうだ。いや、先ほど一度つまずきかけているので油断は禁物だが。
思わず笑うと、彼女も僅かに口元を緩めた。
練習を終えて食事処へ戻ると、入口の木札が風で外れかけていた。
店の男性が紐を探している。やがて長い紐の束を持ってきたので、僕は鞄の小刀を出そうとして右手を見た。
血刃様。お仕事です。
……と思いましたが、先ほど歩行で疲れましたので本日は外注です。
紐は普通の小刀で切った。
札を押さえる役を僕が引き受け、テトライルが結ぶ。彼女の指は迷わず動き、僕が引いても緩まなかった。
戦う手で、こういう事もする。
当たり前なのに、何となく見てしまった。
街道の安全を知らせる者が来たのは、その少し後だった。
丘側の道を使う。先の橋で荷車が一台動けなくなっている為、通る者がそちらへ回されているらしい。
テトライルは出発前に僕へ合図を二つ教えた。
止まれ。戻れ。
短い言葉だけで分かるように、実際に動いて確かめる。
僕も勝手に離れないと約束した。
ただし分からなくなったら、分からないと言う。それも約束に入った。
御車へ戻ると、彼女が地図に印をつけた。
僕は隣の紙へ宿題を書く。
『足を小さく運ぶ。着いた後も見る』
その下に、帰ったら肉、と足した。
勉強の予定だけでは続かない。
僕にも騎士団長にも、帰ってからの楽しみは必要だった。
日が傾く前に、小さな見張り所へ着いた。
今夜はここの客室を借りる。テトライルが手続きをする間、僕は御車から荷物を下ろした。
同じ大きさの袋が二つある。
片方は食料。もう片方は器具。
僕は重い方を持ち上げかけて、そっと戻した。
筋肉の相談窓口が休業中です。
軽い方から運びましょう。
テトライルが戻り、残りを運ぶ。
僕が謝ろうとすると、先に寝床の敷物を頼まれた。広げる場所を確かめ、端を揃える。
役割がなくならなかったので、少しほっとした。
夕食の後は明日の道を二人で見た。
彼女が指した休憩場所を、僕が地図から探す。
水のある場所。御車を隠せる林。通り抜けられない窪地。
「あ、ここなら岩がある」
僕が示すと、彼女はその後ろの崖を指した。
隠れられても、追われたら次がない。
本日二度目の宿題だった。
景色を見るだけなら得意なつもりでいた。旅のパンフレットを見る目と、逃げ道を探す目は別物らしい。
寝る前、イツモアの果実を一つずつ分けた。
焼き物に添えられていた注意書きを思い出し、水も飲む。テトライルも杯へ手を伸ばしたので、僕は笑った。
二人とも指導対象だった。
巫女長の注意書きには、騎士団長も逆らわないらしい。
お読みいただきありがとうございます。
戦う為の練習も、まずは転ばずに動くところから。
カイとテトライルの旅の続きを、ブックマークしてお待ちいただけると嬉しいです。




